
親孝行という言葉に辛くなる人もいる
「親孝行をしましょう」
「親を大事にしましょう」
そう言われるたびに、胸が苦しくなる人がいます。
その言葉が正しいことは、頭ではわかっている。
けれど、それ以前に、
親を愛せない
ということで、深く悩んでいる人もいるのです。
私自身も、かつて「親孝行」という言葉を聞くたびに、つらい気持ちになった時期がありました。
私の場合、物心ついたときにはすでに両親は離婚していて、私は母親に育てられました。
父親が三回変わり、そのたびに名字も変わりました。
母親は何度も家出を繰り返し、借金をつくっては戻ってきて、ほとんど好き勝手に生きていた人でした。
そうした経緯もあり、私は児童相談所と学校との連携に恵まれ、少しの間、里親のもとで生活していたこともあります。
私には弟が二人いて、幼い頃から自分が母親のように弟たちの世話をしながら生活していました。
だから時々、思うのです。
果たして自分には、
「親」と呼べる存在が本当にいたのだろうか、と。
もちろん、私という存在があるのは、親がいたからです。
その事実は変わりません。
けれど、人に道徳的なことを語るときには、その人の背景や、抱えてきた痛みを尊重しなければならないと思います。
「親を大切にするのは良いことだ」とわかっている。
それなのに、本心ではできない。
そのことに苦しむ人もいるのです。
どうしたら、親を愛せるようになるのだろう。
嫌な体験ばかりで、親を愛せる理由がどうしても見つからない。
そのような場合、親に対して、
「自分がどれだけ傷ついてきたか」
をわかってもらおうとしても、それは叶わないことのほうが多いのかもしれません。
だからこそ大切なのは、まず、
あなた自身が、理想的な生き方を実現していくこと
ではないでしょうか。
今はできない。
親を心から愛することも、感謝することもできない。
それなら、それを無理に否定しなくてもいいのだと思います。
ただ心のどこかで、
いつか、
親孝行できるような自分になっていこう。
そう思っていれば、それで十分なのではないでしょうか。
たとえ最後まで、親を愛することができなかったとしても、
自己変革していこう、自分を成長させようという思いに裏切られることはない
と思うのです。
親孝行は、親のためだけにするものではありません。
それは、自分自身の人としての振る舞いであり、成長を示すものでもあります。
「親のためにはできない」
と思うなら、自分の成長のためだと思えばいいのです。
ソウルメイトという視点で見るなら、時には、
親が悪役になって、あなたの魂の成長に力を貸している
ということもあるのかもしれません。
あなたの心をもっと大きくするためには、その人が親である必要があった。
後になって、そのようにわかることもあります。
誰かを深く愛してから、親の愛を知ることもあるでしょう。
自分が親になって初めて、親の弱さや本意に気づくこともあるでしょう。
親を愛せない縁の中にも、深い慈愛が隠れていることがある
私が親になって強く思ったことは、
決して親のようにはなるまい
ということでした。
私の母親はすでに亡くなりましたが、亡くなる数年前まで、私は、
母親が亡くなっても、自分は泣かないだろう
と思っていました。
そして、そう思う自分はなんて冷たい人間なのだろう、という悲しい気持ちもありました。
ただ、「親孝行」が大切だということは、頭ではわかっていました。
だから晩年は、ただ道徳心から、できる限り誠意を尽くしました。
けれど、母が亡くなったとき、私はその行為がどれほど大切だったのかを知りました。
自分をこの世に送り出してくれた人が、この世からいなくなる。
その意味を、初めて知ったのです。
私が思っていたよりも、もっと大きく、もっと深い縁があったのだとわかりました。
再び地上へ降り立ち、この世界の景色を見る機会を与えてくれたという意味で、親は間違いなく感謝すべき存在です。
そして母は、私を成長させてくれた存在でもありました。
私には、相当な「劇薬」が必要だったのかもしれません。
母は、自分が亡くなったあとも長い人生を生きていく私を守るために、自らの生き方で何かを示してくれていたのかもしれません。
人と一定の距離を保つこと。
相手の荷を背負い過ぎないこと。
自分の人生を誰かに明け渡さないこと。
母は、良い手本としてではなく、反面教師として、私に多くのことを教えてくれたのだと思います。
時には、子供のほうが親に生き方を示していることもあります。
あなたがその親の子供でなければ、親は学べなかった。
そういうこともあるはずです。
私に直接言ったわけではありませんが、母は晩年、
「私は毒親だった」
と悔恨していたと聞きました。
そういえば、ある日、母と食卓を囲んでいたとき、母が突然、嗚咽を漏らしたことがありました。
もし私がいたことで、母が何かを学んでくれたのなら、
母は来世では、もっと素敵に、もっと幸せに生きられるのではないか。
今は、そのように思っています。
自分の生き方を通して、親に何かを学んでもらう。
それもまた、一つの親孝行なのかもしれません。
いつだったか、
「あの子は自分の子供だけれど、今は尊敬の思いで見ている」
と言った人がいました。
あなたが成長していく姿を見せること。
自分の人生を諦めず、幸せになっていくこと。
それだけでも、すでに大きな親孝行なのではないでしょうか。
親を愛せないとしても、「それでも」と生きることは尊い
今の私は、
夢でもいい。
幽霊でもいいから、もう一度母に会いたい。
そう思うことがあります。
もちろん、誰もがそのような気持ちになるとは限りません。
最後まで親を許せない人もいるでしょう。
会いたいと思えない人もいるでしょう。
親のことを思い出すだけで、心が苦しくなる人もいると思います。
それでも大切なのは、
「だから仕方ないのだ」
と、自分の人生そのものまで諦めてしまわないことです。
今、怒りや憎しみがあったとしても、それはあなたが悪いからではありません。
それだけの痛みを受けてきたということです。
ただ、その家庭不和の宿業と正面から向き合わなければ、人生のどこかで同じ痛みを繰り返してしまうこともあります。
だからこそ、
それでも。
それでも。
と、自分を少しずつ引き上げるように生きていくことが大切なのだと思います。
「何か意味があるのだ」
と思って生きていく中で、いつかその深い縁を知る日が訪れるのかもしれません。
「親のようにはならない」と決めること
「決して、親のようにはなるまい」
そう思ったのだとしたら、それは、あなたと深い縁のある人が、
同じことをしてはいけない
と、自分の生き方を通して示してくれているのかもしれません。
もちろん、目に見える形では同じことをしないと思います。
酒癖の悪さ。
異性関係のだらしなさ。
ギャンブル。
借金。
無責任さ。
感情のままに人を振り回すこと。
そうした表面的な部分については、「自分は絶対にしない」と思うでしょう。
けれど本当の問題は、もっと奥に隠れていることがあります。
たとえば、
人との距離感がわからない。
自分の不安を人にぶつけてしまう。
愛情と支配を混同してしまう。
相手の人生まで背負おうとしてしまう。
自分を粗末に扱うことに慣れてしまう。
そうしたことが、自分の中で「当たり前」のようになっている場合もあるのです。
親の代から繰り返されてきたことは、当人の中では自然なものになっていて、なかなか問題の根源に気づけないことがあります。
けれど、あなたの家庭的事情は、本当のところ、あなたの魂の崇高な要求にかなっているのかもしれません。
「血筋」という言葉があるように、どの人にも、つながりやルーツがあります。
眷属、守護神、一族。
いろいろな言い方があると思います。
私は時々、こんなふうに考えます。
人は、自分たちの一族が背負ってきた悪い傾向性やパターンを断ち切るために、生まれてくることがあるのではないか。
あるいは、自分自身が、
今世では必ずこの流れを断ち切ろう
と決めて、地上に降り立っているのではないか、と。
このあたりをどう考えるかは、人それぞれでよいと思います。
ただ、
自分にも親の気質を受け継いでいる可能性がある
と考えることは、とても大切です。
親への憎悪によって自分を苦しめるのではなく、
この根源を、自分のところで絶っていこう
と決めること。
それが、新しい本当の自分を創ることにつながるのではないでしょうか。
改善する必要があるとわかっていても、
「仕方ない」
「これも運命だから」
と諦めてしまう人もいます。
諦めるほうが楽なのかもしれません。
何もしなくてすむからです。
けれど、
「そうはなりたくない」
と言いながら、なぜか同じ運命をたどっていく人がいる一方で、ある日、
「ああ、そうだったのか」
と、悪しきパターンに気づく人もいます。
そして、そのことに気づき、本気で断ち切ろうとした人は、その時を境に運命ががらりと変わっていくことがあります。
親のようになりたくないなら、
本当に、ならないと決めること。
親を愛せない自分を責めるよりも、
親を憎むことで自分を縛り続けるよりも、
自分の代で、苦しみの連鎖を終わらせていく。
それは、とても尊い生き方だと思います。
親を愛せないからといって、人として失格なのではありません。
むしろ、その苦しみの中でなお、
よりよく生きようとする人。
自分を変えようとする人。
同じ痛みを次へ渡さないと決める人。
その人は、すでに深いところで、愛に向かって歩いているのだと思います。


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