日常の謎<1>ー駐車場に来るタイミングが隣の人とかぶる、という現象

駐車場で車に戻るタイミングが重なったように感じる女性の後ろ姿

あなたは、

駐車場で車に戻るタイミングが、なぜか隣の人と必ず重なる

と感じたことはないだろうか。

一度や二度なら、そんなこともあるだろう。
でも、それが“毎日のように”続くとなると──
もはやこれは「ただの偶然」とは呼びにくい。


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◆何度も重なると、偶然とは思えなくなる

家を出ようとすると、
なぜか、隣の人もそこにいる。

軽く挨拶を交わし、同じタイミングで車を発進させる。
よくある、何でもない光景だ。

仕事が終わるのは、いつも決まって7時間後。
ビルの時計を見上げて帰り支度をし、駐車場へ向かう。

そしてまた、そこには人がいる。
今度は言葉を交わさない。
挨拶すらした覚えがない。

なのに、まるで打ち合わせをしたかのように
私たちは同じタイミングで車のドアを開ける。

助手席のドアを閉める音、エンジンをかける動き、
あるいは、ちょうど歩いて戻ってくる足音。

これが一度や二度なら、偶然と笑い流せる。

でも、毎日のように重なるとなると、

これは、いったい何なのだろう

と思わずにはいられなくなる。

◆駐車場に来るタイミングが重なるのは、なぜだろう

現実的に考えれば、いくつかの理由が思い浮かぶ。

たとえば、出勤や退勤、買い物にかかる時間が似ているのかもしれない。

同じ場所を、同じような時間帯に利用している者同士なら、車へ戻る時間が重なることもあるだろう。

また、私の車のドアが開く音を聞いて、隣の人が、

「あ、そろそろ出るのか」

と無意識に動き始めているのかもしれない。

反対に、私のほうが相手の足音や気配を感じ取り、知らないうちに動くタイミングを合わせていることも考えられる。

人は、周囲の音や動きを、自分で思っている以上に感じ取っているものだ。

もう一つ考えられるのは、一度この現象を気にし始めたために、重なったときのことだけが強く記憶に残っている、ということ。

タイミングが重ならなかった日は何も思わず、重なった日だけ、

「まただ」

と印象に残る。

いわゆる認知バイアスによって、実際よりも頻繁に起きているように感じることはあるのだと思う。

こうして考えれば、この現象には、ある程度の説明がつく。

けれど、当時の私の心はいう。

それだけではないような気がする

と。

同じことが起きても、何とも思わない人もいる。

「また一緒になったね」

と笑い、そのまま忘れてしまう人もいるに違いない。

けれど、同じタイミングになるたびに、落ち着かない気持ちになる人もいる。

反対に、不思議な縁のようなものを感じる人もいるかもしれない。

どちらの受け止め方が正しいかではない。

同じ出来事でも、それをどう感じるかは、そのときの自分の心の状態によって変わる。

何かを「気にする」ということそのものが、
すでにその出来事に意味を与え始めている。

現象を不思議だと感じているのなら、外で起きていることだけでなく、それを気にしている自分にも目を向ける必要があるのかもしれない。

日常には、意味なんてないことばかりが溢れている。
でも、人は、意味のないものにさえ、
意味を見出そうとしてしまう生きものだ。

そしてその意味づけこそが、
自分だけの感覚や視点を育て、
見えない世界とのつながりを信じるきっかけになるのかもしれない。

↑

私がまだ、(外へ出て)仕事をしていた当時を思い出してーというか、当時のブログ日記から一部拝借して記述しました。

◆今の私には、同じ現象が起きていない

本来なら自由なはずなのに、隣の人の気配を感じることで、自分の行動まで見られているような気がする。

同じタイミングになるたびに、相手を意識せずにはいられなくなる。

私は、誰かに行動を決められていたわけではないのに、

心のどこかで、自由に動けないような窮屈さを感じていたように思います。

これは、すべての人にはあてはまらないかもしれません。

何度も考え、当時の自分と今の自分を比べた末に、私がたどり着いた一つの答え

なのですが、

もうひとつ

私自身のことで心当たりがあるのは、そのままのことをただ知らせていたのかもしれない。

また、会ったね

という、その時期に関わること。

また会う、また遇った、また、それが起きている・・

 

「それは脳の認知バイアスのせいだよ」

「理論的に説明できる現象に過ぎない」

などと言われたりもするかもしれない、でも、その人は「わからずや」なわけではないのです。

問題だと受け止めている自分が、

何かを感じ取っている自分が

考えなくてはならない

ことなのかもしれません。

◆答えを探すうちに、見えてきたもの

でも、当時の私には、それが分かりませんでした。私自身は

今思い出してみても、あまり良いことが起きているようには感じませんでした。

 

そして、今現在。

意識してみても、このような現象は起きていません。

隣の家の人と外出時間がかぶることもなければ、スーパーに駐車して、隣に停めた人と鉢合うこともありません。

 

いったい、何に気づかなくてはならないのだろう。

そう思い、この現象について、いろいろな角度から思いを巡らしました。

正直に言えば、考えすぎて、気が変になりそうでした。(;´∀`)

思うに、

それが偶然であっても、必然であったとしても―

隣の車(の主)を意識してしまうのは、

自由であるはずなのに、不自由な思いをしている

ということなのかもしれません。

 

駐車場とは、限られた場所の中で、それぞれが決められた位置に車を置き、秩序を保つ場所である

そう考えると

それは「限られた場所の中で秩序を保ちたい」という願いや、新しい世界を構築しようとして苦戦している心を表しているのかもしれません。

隣人には、

できるだけ平和に、人と関わっていきたい

という、ささやかな願いが映っているのかもしれません。

見知らぬ誰かは、まだ向き合えていない自分や、自分でも気づいていない一部分の投影なのかもしれないし、

「縁」という視点から考えれば、多様で無数に広がるこの世界の中で、私たちが実際に経験できる出会いは、ごく限られています。

たまたま隣に車を停め、同じ時間に戻ってきた人も、その日、その場所でしか交わることのなかった人なのだ、等々・・

私はこの現象を理解しようとして、駐車場、隣人、見知らぬ人、そして縁についてまで考えました。

けれど、どの解釈も、それだけでは答えにならず、

今になって思えば、それらはすべて、

自由でいたいのに、人の気配を意識せずにはいられない

という、当時の私の心へつながっていたのだと思います。

私は現象の意味を知りたかったというよりも、自分の中にある、言葉にならない窮屈さの正体を知りたかったのかもしれません。

答えが見つからないから、人は意味を探す

駐車場で隣の人とタイミングが重なる現象に、確かな答えはありません。

生活のリズムや無意識の反応、認知バイアスによって説明できる部分は

確かにあるでしょう。

けれど、それでも何かが引っかかり、答えを探し続ける人もいる

のではないか、と思います。

おそらく、この頁を訪れる人が多いのも、同じような経験をしている人が多いことに加えて、誰もが納得できる答えが、まだ見つからないから

なのでしょう。

だから私は、 「それは何でもない、ただの偶然です」 とも、

「きっと特別な意味があります」 とも言い切ることは避けようと思います。

 

このブログ全体が、断定を避け、曖昧に思えるような言い方になってしまうのも、

人の数だけ答えがある

という気持ちがあるからで、夢占いでも、隙間バイトブログでも同じ気持ちで書いています。

 

日常には、意味のないように見える出来事があふれています。

けれど、人はそこに何かを感じ、意味を見いだそうとします。

また、

私たちはつい、

「これは自分だけに起きている特別な現象だ」

と思い込んでしまうことがあります。

けれど、誰にでも“特別な経験”があります。

改めてそう思ったのは、ある日の何気ない会話でした。

 

かつて私が
「この人は絶対スピリチュアルに無関心だろう」と思っていた人が、
ある日ぽつりと言ったのです。

「俺、幽霊みたことあるんだよね…」

……人は、誰もが“見えない世界”を抱えて生きています。

だからこそ、
自分の経験が理解されるか不安になったら、
相手の特別な経験にも耳を傾けてみてください。

そこには必ず
双方の心を照らし、わかりあうためのヒントがあります。

 

そして、

自分に起きたことの真実を追求し、

時間をかけて導き出したその答えは、

きっとあなたの羅針盤になります。

最終的には、自分自身の

—欲望や不安、誘惑に振り回されない、静かで誠実な生き方へと繋がっていく

のだと思います。

そんなおおげさな、と思うかもしれませんが、

「?」「わからない」と思うことは

まだ理解していない何かがあるということの発見でもあり、

しばしば、それがわくわくするような何かに繋がっていたりします。

私達は、良くも悪くも「知りたい」という欲求には抗えず、

それは視点を変える可能性を秘めている

のではないか、と思います。

そうして

未来へと続く新たな道が見つかっていく

こともあるのではないか、と。

 

楽しんでください。可能性の探求を。

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