◆必要以上の金銭を要求されていたら要注意
長い人生の中で、葬儀と無関係に生きる人は少ないと思います。
少しでも、その意味を知ることで心が軽くなれば、
と思い、今回は書いています。
現在ご家族を亡くして一人で家計を支えているのに、毎年お寺に多額の金銭を要求され支払い続けている、
という人もいるかもしれません。
例えば
親がお寺側と懇意にしていた、
同じお墓には祖先も眠っているから仕方ない、
などのようにと考えることもあると思います。
また、故人は
自分たち家族だけではなく、
兄弟や両親などの親族とも繋がっている
わけで、
中には個人的な事情からでは、お寺をかえるなどできない、ということもあるかもしれません。
「その時」になって考えたらいい、
と思う人もいるかもしれませんが、
葬儀は亡くなった日から数日間のうちに執り行われ、
何かをゆっくり考えたり選んだりする余裕は殆どありません。
◆それとない話の中で、当人の意向を知っておく
昨年頃、元上司と「亡くなった後」のことについて少し話をしたことがありました。
その時、彼は
自分の葬儀は全然盛大にしてくれなくて結構。
そのために妻がお茶漬けを食べて生きていくなんて、考えたくもない
と言っていました。
多くの人は、そんな風に残された人を気遣っているし、
自分に対しては気持ちで見送ってほしい
と考えているものです。
ご家族との和やかな談来の際には、こうしたこともお互いに語りあっておくといいと思います。
この記事を書くにあたって、
「お葬式は誰のため? 「弔いのあり方」を考える」(2018年2月11日)
朝日新聞デジタル
「お葬式は誰のため? 「弔いのあり方」を考える」(2018年2月11日)
も拝見しましたが、やはり
同じように思っていらっしゃる方は少なくないと感じました。
ただ、
それでは世間に面目がたたないので、残された人達が葬儀の手配をする、
その形は自由
だと思います。
金銭に余裕がある方、故人の意向を尊重したい方、世間に向けて心に残る式を執り行いたい方、
いろいろあってもいいと思います。ただ、
金銭的余裕がないにも関わらず、
葬儀等に関して無知なことにつけこみ、法外な料金を請求されることもある
わけで、その認識はしておいてほしいと思います。
中には
葬儀で荒稼ぎしている
僧侶もいるからです。
例えば以下のような金額を請求されるようなら、考えてください。
・お通夜ご供養代30万円
・告別式ご供養代50万円
・初七日ご供養代30万円
・客殿使用料金50万円
・お車代(実際には車を使っていなくても)1万円
もしも、そのような僧侶のいる寺院で納骨してしまったなら、後々の管理費用などなど、大変なことになるかもしれませんから。
◆葬式に僧侶はいなくて構わない
そもそも「葬儀」自体、
室町時代中期からの日本の「制度」であり、
当時の宗教統制だったわけで、
釈尊は
葬儀について特別なことを書いてはいません。
僧侶が絶大な権力を握るようになったのは、この頃「宗教統制」が始まってからです。
釈尊の葬儀自体も在家の人達だけで執り行っていますし、
葬儀に関しては在家達に任せ、僧侶は修行に専念するように
と言い残しています。
僧侶は本来、現実の人生の苦悩と向き合う修行僧
であるわけですが、
それが
江戸時代の「檀家制度」以降から
信徒をつなぎ止め、寺院を維持するために
戒名授与・塔婆供養の奨励・年忌法要・盆・彼岸の墓参り等々の儀式
を行うようになっていったのです。
それらが
さも故人が成仏するために必要であるかのように
認識させられています
が、これらは本義ではありません。
そもそも、私達はこの世を去るにあたり、
僧侶によって引導を渡してもらう必要はない
わけです。
葬儀は、参列した方々が真心で冥福を祈ること・真心からの読経でなんら問題ありません。
敢えて言うなら、
金銭だけうけとって大して話もせず帰ってしまう僧侶よりも、
人として普段からコミュニケーションがあり、残された遺族の悲しみに寄り添ってくれる人との、
心の通った葬儀であるほうが、よっぽど大切です。
僧侶であるとしても、
僧侶である以前に、そのような「人格者」であることが求められます。
ちなみに、うちは家族全員「経」を読めるということもありますが、
祖父・祖母・母・義父 とも
僧侶に読経してもらったことはありません。
今回は、簡単に葬儀に関する言葉の意味に触れるに留めたいと思います。
(また追加記事があれば<2>を追加したいと思います。)
・戒名
中国の慣習に基づいている。「檀家制度」の頃、戒名が義務化されていたが、
慣習化されているのは日本国だけ。
・位牌
仏教とは無関係。成仏とも関係ない。どの仏典にも記載されていない。戒名を発表する程度のものに過ぎない。
・板塔婆
平安時代終わり頃から始まった日本の風習。
仏法の本義とは無関係
・彼岸
「向こう側」を示す言葉。対「此岸」(こちら側)
本来の供養とは無関係で仏教本来の伝統でもない。
けれど、「農耕の儀式」などと結びついて日本の風習として残っている。
風習として行うこと自体は問題ない。