
大きな悲しみを経験したあと、それまでとは違う生き方を選ぶ人がいます。
自分と同じ思いを、ほかの誰にも味わってほしくない。
同じ苦しみの中にいる人の、支えになりたい。
そのような思いが、やがて仕事や活動へと育ち、その人の使命と呼べるものになっていくことがあります。
だからといって、悲しい体験をすれば、必ず使命が見つかるわけではなく、
まして、使命に出会うためには、悲しまなければならないということでもありません。
それではなぜ、悲しい体験のあとで使命に導かれる人がいるのでしょうか。
◆悲しい体験のあと、生き方が洗練されていく
テレビや新聞などで、その歩みが紹介される人たちがいます。
そういう人たちは、ときに、人生に何が起こり、そこから何を見いだしたのかを、私たちにもわかる形で伝えてくれます。
その歩みを見ていると、とても大変な経験をしたあとで、生き方や仕事が少しずつ洗練されていくことがあります。
もちろん、苦しみそのものが人を立派にするわけではありません。
苦しさのあまり、何も考えられなくなることもあります。立ち上がるまでに、長い時間を必要とすることもあります。
ただ、それまで信じていたものが崩れたとき、人はあらためて、
自分は、何を大切にして生きたいのか
を考えるようになります。
そして、経験を重ねる中で、
正しいように見えるものと、
本当に自分の未来を支えてくれるもの
との違いが、少しずつわかるようになるのかもしれません。
人から評価されることが、必ずしも自分を支えるとは限らず、
正論が、傷ついた心を救ってくれるとも限りません。
反対に、そのときは小さく見えた人の温かさや、自分の中に残っていたささやかな願いが、のちの人生を支えることもあります。
悲しい体験は、それまで見えなかった違いを、深く見つめるきっかけになることがあります。
◆「自分だけの悲しみ」ではないと知る
仏法説話に、我が子を亡くし、悲嘆にくれる母親の話があります。
母親は、亡くなった子どもを救ってほしいと釈尊に願います。
釈尊は、薬として芥子の種をもらってくるように語ります。ただし、それは「これまで一度も死人を出したことのない家」から、もらわなければなりませんでした。
母親は一軒一軒、家を訪ねて回ります。
けれど、家族を亡くしたことのない家は、どこにもありませんでした。
訪ね歩くうちに母親は、自分だけではなく、どの家にも、それぞれの悲しみがあることに気づいていきます。
悲しみを持たない人は、どこにもいない。
この気づきは、自分の悲しみを小さく扱うことではないのです。
「みんなも苦しんでいるのだから、我慢しなければならない」という意味でもありません。
自分の悲しみを通して、それまで見えていなかった誰かの悲しみにも、気づけるようになるということです。
◆悲しみが「愛しみ」へと変わるとき
悲しみを、誰かに受け止めてもらった経験がある人は、今度は自分が、誰かの悲しみを受け止められることがあります。
すぐに元気になるよう求めず、簡単な言葉で片づけず、その人が自分の力を取り戻すまで、静かに待つことができます。
自分が苦しかったとき、本当は何を必要としていたのか。
どんな言葉には傷つき、どのような関わりに救われたのか。
それを深く理解した人は、同じような場所にいる人に、自分が何を差し出せるのかも考えるようになります。
そのとき悲しみは、ただ自分を傷つけた過去ではなく、誰かを大切に思う「愛しみ」へと、少しずつ姿を変えていくのかもしれません。
だからすべての悲しみを、愛や感謝へ変えよといいたいのではありません。
まだ悲しいままであるなら、その気持ちを急いで変える必要はないのだと思います。
悲しみが別のものへ変わるときは、自分の心が本当にそこまで歩いてきたとき
だと思うのです。
◆使命に目覚めるとは、自分を深く理解すること
使命に目覚めることを、突然、特別な能力を得ることのように考える人もいるかもしれません。
けれど実際には、もっと静かな変化なのだと思います。
自分は、人生で何を大切にしているのか。
本当は、何を必要としていたのか。
これまでの経験を通して、今の自分には何を差し出すことができるのか。
そして、どのような形なら、自分自身を損なわずに続けていけるのか。
悲しい体験によって、それまで当たり前だった考え方や関係が崩れると、私たちはこうしたことを、以前より深く考えるようになります。
その理解が深まるほど、単に「人のために何かをしたい」という思いから、
今の自分だからこそ、できることは何か
という、より現実的な問いへ進んでいきます。
使命への目覚めとは、自分ではない何者かになることではなく、本来の自分を深く知り、その自分をどのように生かすかが見え始めることなのかもしれません。
◆思いが使命になるまでには、時間がかかる
「人の役に立ちたい」という思いが生まれても、それだけで、すぐに使命の形が整うわけではありません。
有望な可能性を、確かなもの、長く続けられるもの、そして本当に価値のあるものへ育てるには、時間がかかります。
目の前のことに誠実に取り組む姿勢。
すぐに結果が出なくても続けていく忍耐。
そして、相手や状況の変化に応じて、自分の方法を見直し、洗練させていく力も必要です。
最初は、自分がしてあげたいことと、相手が本当に必要としていることが、同じではない場合もあります。
うまくいかなかった経験から学び、方法を変え、また試してみる。
その繰り返しの中で、最初は小さな願いにすぎなかったものが、誰かの未来を支えられる、確かなものへと育っていきます。
ここでいう献身とは、自分を犠牲にすることではありません。
自分をすり減らして続けるなら、やがて誰かを支えることも難しくなってしまいます。
自分を大切にしながら、できることを誠実に続ける。
それもまた、使命を長く育てていくために必要な姿勢なのだと思います。
◆使命は、誰かと同じ形でなくていい
使命という言葉から、大きな仕事や、世の中に名前を残すような活動を思い浮かべる人もいるかもしれません。
けれど、使命は必ずしも、多くの人から見える形をしているとは限りません。
自分の経験を、ひとつの記事に書き残すこと。
目の前の人の話を、急かさずに聞くこと。
自分が苦労して知ったことを、必要としている人へ伝えること。
誰にも評価されない場所で、誠実に役割を果たすこと。
それも、その人にしかできない使命の形です。
私たちはみな、誰かと同じ方法ではなく、
自分だけの仕方で、新たな始まりのための基盤をつくっています。
何か特別なものへとつながっていくのは、特別な能力があるからではなく、自分の経験から目をそらさず、そこから得た理解を少しずつ深めてきたからなのかもしれません。
◆使命は、自分自身の未来も支えてくれる
使命は、自分以外の人だけを幸せにするものではありません。
自分が大切にしたいことと、自分の行動が重なったとき、心の中には静かな充足感が生まれます。
誰かから高く評価されたからではなく、これまで経験してきたことが、今の自分の生き方につながっていると感じられるからです。
悲しかった出来事そのものが消えるわけではありません。
それでも、その経験が、ただ自分を傷つけた過去として残るのではなく、今を生きる力の一部になっていくことがあります。
使命に生きることは、自分の幸せを後回しにすることではありません。
誰かの未来を支えようとする歩みが、同時に、自分自身の未来をも支えていく。
そのような循環の中で、人は魂が満たされるような喜びを感じるのかもしれません。
◆悲しみは、使命の条件ではない
悲しい体験をしなければ、使命に出会えないわけではありません。
起きた悲しみを、無理に「意味のあるもの」に変える必要もありません。
あの出来事があってよかったと、思えないままでもよいのです。
使命は、悲しみへのご褒美でも、失ったものの代償でもありません。
ただ、悲しみの中で知ったことが、長い時間をかけて、自分や誰かの未来を支える力へ変わることがあります。
それまで正しいと思っていたものが崩れたからこそ、本当に大切にしたいものが見えてくることもあります。
そして、その深い理解を現実の中で何度も磨き、誰かに届けられる形へ育てていく。
使命とは、自分の経験から得た深い理解を、誰かの未来を支える形へと育てていくこと。
悲しみと引き換えに与えられるものではなく、悲しみを通して知ったことを、これからの人生に生かしていくことなのだと思います。


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