今回は、「執着心」についてお話ししたいと思います。
「執着」って、あまり肯定的な言葉とみなしませんよね。
執着は発展を妨げる
と考える傾向が強いからでしょうか。
でも、
亡き人を想い、過ぎゆく時を憂い、ときには自分の元で育った人を、淋しい思いを堪えながら見送る、
そんな
執着心ゆえに生まれる感情や行為があるから、私達は完全にバラバラにはなりません。
また、味わいのある人生にもなります。
どんなに未来志向であるとしても、
そうした諸々と自分を切り離して生きている人はいないわけで、
本当のところ
どこかでつながっている、という気持ちなくして、人間らしくは生きられない
ように思います。
このブログでは、ツインレイについても記述していますが、ことツインレイについての記事となると
「手放すことが大切」と書かれていたりします。それらの主張には、一理ある(古い考えにしがみついたままでいたら、
未知の領域に足を踏みこみ、新たな選択肢や可能性を探ることはできない)
でも、
「安易に」切り捨てたり、見限ってしまう考え方に、私は賛成できません。
確かに、
「煩悩を断ち切る」とは、高尚な行為であるような気がします。
が、その考え方には、大きな陥穽があります。
もしも、
本当に執着心をなくしてしまったら、どうなるでしょう。
頭の中から「執着する」部位を失くしてしまったら、
私達は、ぼーっと生きるようになるかもしれません。
何しろ、生きることにも執着心を抱かなくなるわけですからね。
或いは、何に関しても関心をもたない、とても冷たい人間になってしまうでしょう。
釈尊は執着心を断ったのでは?
と考える人もいるかもしれませんが、執着心なくして、
「森羅万象を貫く究極の法則に目覚める」ことはなかったでしょう。
私達は、執着心についてどのように考え、生きればよいのでしょうか。
よく、「中道をいく」といいますが、中道とは、AとBの真ん中をとってバランスよくいく
ということではなくて、
第三の道を(模索し)拓いていく生き方です。もしも、あなたに
執着心について考える契機が訪れたとしたら、それが大切なときなのだよ、と言われているのかもしれません。
仏法においては、
執着心について、
その執着を使い切って生きる
という考え方が説かれています。
維持し続けるのでも、断ち切るのでもなく、執着心を昇華させていくこと、
執着心が自分を苦しめないようにしながらも、
その心を明らめ使って(働かせ、用いて)
人生を切り開いていく
ー仕事をし、結婚生活を維持し、大事な人を支え、自身を成長させ続ける
ことで、希望という新しい景色が広がっていく
のではないでしょうか。