
◆自分には使命などない、と思うとき
自分には、使命などあるはずがない。
自分は、取るに足らない人間だ。
そう思っている人もいるのではないでしょうか。
使命と聞くと、大きな仕事を成し遂げる人や、世の中に名前を残す人を思い浮かべるのかもしれません。
何か特別な才能があり、強い意志を持って、迷うことなく自分の道を歩いている人。
そのような人にだけ、使命があるように見えることがあります。
けれど、自分を小さく感じてきたことは、使命がないことの証明にはなりません。
今、使命が見えないからといって、それは持っていないということではない、
使命は、最初から完成した形で、自分の前に差し出されるものではない
からです。
日々を生き、人と出会い、喜んだり、悩んだりしながら、少しずつ形が見えてくるものなのだと思います。
使命とは、特別な何者かになることではなく、自分の生命をどのように生かしていくかということ。
そう考えるなら、使命と無関係な人は、ひとりもいないのではないでしょうか。
◆使命は、好きなことだけから見つかるのではない
使命や生きがいについて語られるとき、
好きなこと、やりたいことから始めよう
と言われることがあります。
けれど、やりたいことがわからない
という人もいる、
私なんかも、現実に山積みになっている、いくつもの「やりたくないこと」をこなすだけで精いっぱいで、
好きなことを探す余裕さえ、ない時期がありました。
それでも、目の前にあることをひとつずつ終え、その経験を重ねたあとで、ようやく、
本当は、こういうことをしてみたかった
と気づくことがあります。
また、「なんとなく好き」「なぜか気になる」という小さな感覚を大切にしているうちに、その先に続く道が見えてくることもあると思います。
好きなことが、すぐに仕事や使命になるということばかりではない
けれど、自分の世界を少しずつ広げ、自分がどこへ向かいたいのかを教えてくれる案内役にはなります。
使命は、「好きなこと」だけから見つかるのでも、「やりたくないこと」に耐え続けた先にだけあるのでもありません。
その両方を経験しながら、
自分は何を大切にしたいのか
が、少しずつ明らかになっていく
のかもしれません。
◆与えられたことをしている先に見えてくる
この地球上に、あなたとまったく同じ人はいません。
人にはそれぞれ、異なる環境と出会いがあり、独自の学びの過程があります。
同じ仕事をしていても、そこで感じることや、身につけていくものは違います。
生活のために働くこと。
家族の世話をすること。
与えられた役割を果たすこと。
思いどおりにならない人間関係の中で、自分の気持ちを伝える方法を覚えること。
一見、使命とは関係がないように見える毎日の中でも、私たちは、自分の得意なことと苦手なことを知り、自分にできることの使い分けを学んでいます。
ときには失敗し、落胆し、自分の未熟さを思い知らされることもあります。
反対に、自分では何とも思っていなかったことを誰かに喜ばれ、
これは、自分にもできることなのかもしれない
と気づくこともあります。
そうした経験は、すぐには何につながるのかわかりません。
けれど後から振り返ると、仕事で覚えたことも、遠回りしたことも、人との関わりの中で学んだことも、思いがけない形で今の自分に生かされていることがあります。
平凡に見える一日一日の積み重ねは、使命から離れた時間ではなく、
自分にしか築けない土台をつくっている時間
なのかもしれません。
だからといって、無理をして働いたり、自分をすり減らしたりする必要はなく、
今の自分にできることを、自分を大切にしながら、誠実に続けていく。
その中で育てたものが、いつか誰かの役に立つ形へ変わっていくのではないでしょうか。
◆劣等感に苦しんだからこそ、わかる痛みがある
劣等感に苦しめられることにも、深い意味があるのかもしれません。
もちろん、苦しみを美しいものとして語りたいわけではないです。
劣等感は、人と比べるたびに心を傷つけ、自分の可能性を小さく見せることがあります。
それでも、苦しんだあなただからこそ、気づくことのできる人の心の痛みがあります。
自分の言葉が届かなかった苦しさを知っているから、声を上げられない人に気づける。
人から軽く扱われた経験があるから、誰かを立場や肩書きだけで判断せずにいられる。
自分には価値がないと思ったことがあるからこそ、同じように自分を見失っている人の気持ちを、簡単な言葉で片づけずにいられる。
自分が悩み、苦しんできたことは、同じように苦しむ人の痛みを理解する力へ変わることがあります。
そして、自分が本当は何を必要としていたのかがわかると、今度は、誰かに何を差し出せるのかも見えてきます。
大きなことをする必要はないと思います。
人の話を最後まで聞くことかもしれないし、
自分の経験を言葉にして残すことかもしれません。
かつての自分と同じ場所にいる人へ、
あなたは、取るに足らない人ではない
と伝えることかもしれません。
◆願兼於業――宿命を使命へ変える
仏法には、願兼於業という思想があります。
自らが抱える困難を、単なる不運として終わらせるのではなく、人々を救うために、自ら願って担ったものとして捉え返す思想です。
それは、起きた出来事を「仕方がない」と諦めることではありません。
「自分が願ったのだから、どのような苦しみにも耐えなければならない」という意味でもありません。
傷つけられる場所にとどまったり、自分を犠牲にしたりすることを求めるものでもない
と、私は思っています。
苦しみに人生を決められるのではなく、
この経験を通して、自分は何を伝えられるだろう
と、その意味を自分の手に取り戻していくことです。
どうして自分だけが、このような目に遭うのだろう。
そう思っていた人が、いつか同じ苦しみの中にいる人へ手を差し伸べたとき、自分だけの宿命だったものが、誰かの未来を支える使命へと変わり始めます。
法華経には、すべての人の生命に仏性があると説かれています。
人種や性別、民族、職業、心身の状態など、あらゆる違いを超えて、誰の生命にも根源的な尊厳があるという生命観です。
私が仏法を学んでいるので、このような表現になりますが、別の言葉で捉えてもよいと思います。
大切なのは、
人の価値は、地位や能力によって与えられるものではない
ということです。
何かを成し遂げたから尊いのではなく、本来、誰もが等しく尊い存在である。
そのことに気づくとき、私たちは、自分の生命を何のために生かしたいのかを考え始めるのだと思います。
◆宇宙の歴史から見ても、誰も孤立していない
「誰にでも使命がある」ということを、宗教とは別の角度から考えてみることもできます。
現代宇宙論では、宇宙は今から約138億年前、極めて高温で密度の高い状態から膨張を始めたと考えられています。
そこから長い長い時間をかけて、物質や光が生まれ、星や銀河がつくられ、やがて地球と多様な生命が生まれました。
私たちの身体をつくっている物質も、宇宙の長い歴史の中で生まれ、形を変えながら受け継がれてきたものです。
そして地球上の生命も、人間の社会も、何ひとつ、それだけで成り立っているものはありません。
私たちは、食べ物や水、空気、自然環境に支えられ、人が築いてきた知識や技術を受け取り、誰かの仕事や思いやりに助けられながら生きています。
同時に、自分自身もまた、気づかないところで誰かの暮らしや心を支えています。
もちろん、宇宙論そのものが、「人には使命がある」と証明しているわけではありません。
けれど少なくとも、
自分だけが、何にも影響を与えず、何からも影響を受けずに存在している
ということはできないのだと思います。
自分がそこにいることで成り立っている家庭の時間がある。
自分が働くことで動いている仕事の一部がある。
自分がかけた何気ない言葉によって、少しだけ安心できた人がいる。
その影響は小さく、目には見えないかもしれません。
それでも、
私がいることで、あなたがいることで、成り立っている何かがある
のです。
もし、宇宙の始まりから私たちへ受け継がれてきたものを「光」と呼ぶなら、その光は、選ばれた一部の人の中だけにあるのではありません。
誰の生命の中にもあり、その人にしか照らすことのできない場所がある。
使命とは、その光を特別なものに変えることではなく、すでに自分の中にあるものを、どのように周囲へ手渡していくのかということなのかもしれません。
◆一人の勇気ある言葉が、次の一人を励ます
昨今のYouTubeやSNSなどを見ていると、一人の勇気ある発言が、多くの人の共感を呼び、広がっていくことがあります。
それまで誰もが心の中では感じていたのに、うまく言葉にできなかったこと。
人に話しても、わかってもらえないと思っていたこと。
それを誰かが率直に語ったとき、見ていた人たちから、
そうそう、そうなんだよね
という声が上がります。
その人の言葉によって、初めて、
自分だけが感じていたのではなかった
と知る人もいるでしょう。
一人が言葉にしたことで、次の人も自分の経験を話せるようになる。
さらに別の人が、自分にできる行動を始める。
そのようにして共感が連なり、それまで見過ごされていた問題が、少しずつ多くの人に知られていきます。
最初に発言した人は、社会を変えようなどと思っていなかったかもしれません。
ただ、自分が経験したことを、自分の言葉で伝えただけなのかもしれません。
それでも、その言葉が誰かの孤独を軽くし、次の人が声を上げる勇気になるなら、そこには確かに、
人と社会に変化をもたらす力
があります。
使命は、いつも目に見える大きな行動として始まるわけではありません。
誰も言葉にできなかった思いを、一人が言葉にすること。
誰も振り向かなかった人の痛みに、一人が気づくこと。
その小さな始まりが、やがて多くの人を励ますものへ育つことがあります。
◆地位も財産も、使命とは関係ない
使命に目覚めるために、何か特別な存在になる必要はありません。
有名であることも、地位があることも、お金を持っていることも、その人の使命の大きさを決めるものではないし、
使命が、職業の名前と一致するとも限らない、
拍手喝采を浴びることも、仕立ての良いスーツを着ることもないかもしれません。
こう、考えることが大事ではないでしょうか。
少し前に進み出て、その人の人生を少しだけ楽にしてあげることだ、と。
家庭の中でしか見えない役割もあります。
ひとつの記事を書くことが、遠くにいる誰かを支えることもあります。
他の人と同じ仕事をしていても、
ある人は技術を通して人を支え、ある人は温かな言葉で人を安心させ、またある人は、誰も気づかなかった問題を見つけるでしょう。
誰にも評価されない場所で続けてきたことが、思いがけず人の役に立つこともあります。
使命とは、その名のとおり、
自分の命を、何のために使うのか
という問いなのだと思います。
それは、自分の幸福を捨てて、誰かのためだけに生きることではありません。
自分を大切にしながら、自分が持っているものを、自分と誰かの幸福のために生かしていくことです。
◆自分ひとりの宿命を使命へと変える生き方は、次の一人の希望になる。
「自分には価値がない」と思っている人達は、
いまはまだ、
自分がどれほどの影響力を持っているかに気づいていないだけ
だと、私は思うのです。
いまはまだ、使命につながる
必要な情報を集めている最中で、
ときには堂々巡りをしているように思ったり、日常的に忍耐を強いられる
といったことがあるかもしれません。
自分の努力が変化をもたらしているのかさえ、わからなかったりします。
けれど、そうしたことの中で
私達はたいてい
自分が思っているよりもはるかに多くのことを学んでいます。
悔しいことに、それを知るのは、ずっとあとのことです。
あなたの中で磨かれていく宝珠は、ほとんど気づかれないまま過ぎ去っていくけれど、
やがて、
自分が起こした小さな親切が、誰かにとって大きな救いとなり、
自分では取るに足らないと思っていた経験が、誰かにとっては、暗い場所を歩くための灯になることがあります。
その希望が、また誰かを励ましていく。
その連鎖が広がるとき、社会そのものも少しずつ変わっていきます。
使命は、遠くにある特別な何かではない
のです。
自分の生命の中にある尊さを信じ、今いる場所で、自分にできることをひとつずつ形にしていく。
その歩みの中で、私たちは、自分にしか果たせない役割を少しずつ思い出していくのだと思います。
続く――「使命<2>悲しい体験は、なぜ使命につながるのだろう」


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