人生には、これまでの壁を破り、
生まれ変わったように立ち上がる時
があります。
でも、
今のあなたは来る日も来る日も、同じ景色を見て過ごしているだけに思え、
自分に使命なんてあるのか
とか、
自分に限ってはないのではないか、
と思っているかもしれません。
使命とか、生きがいについて語られるとき、
好きなこと・やりたいことから始めよう!
などと語られることもあります。
私なんかは、そのやりたいことが全然わからなくて、
現実の、山積みになっている諸々の
やりたくないこと
をこなすことに精いっぱいだったような気がします。
けれど、
そうした「やりたくない」ことをし抜いたあとで、ようやく
本当はこんなことをしたかった・・と、
「やりたいこと」を見つけられることがあります。
なんか好き
ということを、なんとなく続けていってその先に見つかる、ということがあります。
好きなことというのは、あなたの
世界を広げてくれる案内役
になっているのだと思います。
「使命」は、個人だけで楽しむこととは違います。
もっと広い世界へと繋がり、広げてゆくものであり、
それは恋愛にも似て、
「好き」な気持ちがちゃんと伝わり、愛に変わるためには
自分だけが急げばいい、というわけでもないのかもしれません。
◆与えられたことをやっている先に、それが見えてくる
この地球上に、あなたのような人はいません。
人には、
独自の運命と学びの過程があり、
どれ一つとして同じ道はありません。
単にあなたは人とは違う使命と目的を持っていて、それらはまだ達成には至ってないというだけです。
人とは違う経験をしているからこそ、あなたも私も、伝えていけることがある
のだと思います。あなたも私も、
自分の立場で生きていく以外にはなく、
自分(あなた)は、自分(あなた)の立場で輝くこと
が大切なのです。
また、
平凡なようで堅実な一日一日の積み重ねこそ、
実は使命と切り離すことのできない、何らかの財産を積んでいる時期
ではないでしょうか。
たいていの人は
好きなことを仕事に
はできません。一部の人にはできるかもしれませんが、大半の場合、
生活のために
働きます。
そして、与えられた仕事の中で
睡眠を削ってみたり、スケジュール管理をしながら、自分のキャパシティーを知ったり、
プライドを捨て学ぶ精神を培ったり、実績を出す戦いを強いられながら、自己研鑽します。
この自己研鑽内容が、自分の人格の課題で、
偉大な仕事をするには、自分の生命を磨き上げるための
開拓作業
が必要であったりします。
イライラしたり、落胆したり、何かを期待してみたり・・、
実体験がなければ、人を助けることはできないし、
そうした中で
自分にとって、何が「一凶」となっているのか、わかることもあると思います。
一朝一夕にはなしえない、
だからこそ、結果としてもたらされるものは、
何があってもびくともしないものになる
のだといえます。
今あなたが取り組んでいる中には、
必ず、あなたにだけ必要な秘術が隠されていて、
私達は、与えられた環境の中で、自分の能力の使い分けを学んでいるのだと思います。
振り返ってみると、それまで自分がやってきた努力が全部、その天職に生かされている
とわかるようになります。
途上でいろんなことを吸収することで、
そのすべてが血肉となっていく、無駄になることは一つもない
のです。
◆何故、「誰にでもある」と言い切れるのか
使命とは、その名の通り、
命を使う
ことです。
かけがえのない何かのために。
そのための、特殊な修行や実践があるというよりは、
そうした生き方を貫くために、
自己の小さな殻を打ち破っていく
日々の、地味な闘い
が必要なのだと思います。だから、まずは
今ここでベストを尽くすこと、
他の「どこか」ではない、
自分が今いる場所こそが、
自分の人生の舞台
だと思うことが大切ではないでしょうか。
そして、できるなら
あなたがいなくては困る
と言われるまで究めていこう、という姿勢が大切です。
それがどんなに小さな役割や仕事であっても。
そうして一生懸命になっているときは、一生懸命生きている時
です。
他の誰からも目を向けてもらえないとしても、私達は、
何がしか宇宙の営みに仕えています。
誰もが「変化をもたらす」使命を持って生まれてくる
わけで、それが目立つかどうかではないのです。
また、
どんな人(生物)の生命にも
十界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏界)
10種の境涯がある
と言われています。
そうであれば、誰の生命の中にも「仏」の生命があるはずであり、
その「仏」の生命が奥底から湧現するとき、
必ず根源の使命を思い出すことになる、
と確信しています。
私が仏法を学んでいるので、このような表現になってしまいましたが、
仏の境地を高級自我と呼ぼうと、新プラトン主義の「一者」と呼ぼうと,、
あなたの馴染みのある表現でかまわないと思います。
◆地位も財産も「使命」とは一切関係ない
でも、
仏の生命
とは、なんなのでしょう。それは
広大で福徳豊かな境涯、
この境涯を開いた人は、無上の慈悲と智慧を体現する、
と言われています。
「仏」ということで、釈尊のように
目覚めた人
を想像し、
さぞかし立派なこと
をしなくてはいけないのだろう、
なら無理だ、
と思ってしまうかもしれませんが、
言いたいのは、
使命に目覚めるために、何か特別な存在になる必要などない
ということです。
釈尊が
最期まで人として生を全うしたように、あくまで
現実の中で生き、今いる場所で闘い抜く
ことが大切だということです。
貴賤上下を選ばず
という言葉があるのですが、
有名だとか、地位があるとか、お金持ちであるとか、そうしたことは一切関係ない、
ということが、仏法の中では多く語られています。
「覚醒」でもお話ししましたが、「目覚める」とは、
誰もが等しく尊い存在なのだ、という真実に気づくこと
です。