
◆私達は、いつだって善悪のはざまで生きている
どんなに高潔に生きていたとしても、
欲に目がくらむ
ことがあります。
私なんかは、欲に目がくらんでばかりで、
善と悪の間を行ったり来たりしながらで生きています。ほんと。
それでも、多くの人達は
成長するにつれ、
より高い次元から物事を判断したい
と考えるようになります。
その行動する際には どう考えるのが正しいか
知りたい、と思います。でも、
解る人はいない
のが実情であるかもしれません。
例えば
困っている人を助けたり、寄付をする
ことは、一般的に「善」と言われています。
でも、
手助けした人や寄付した先で行われていることが「悪」だった場合、
あなたの心は「善」であるとしても、結果的には
悪に加担した、
ということになるでしょう。
善かれと思ってしたつもりが、実はそうでなかった、
というは、案外あるのではないかと思います。
私達が善悪について考えるのも、
結果的に悪に加担することになるのでは?
と、恐れるからではないでしょうか。
ー 肝心なのは、自分の「魂が磨かれる方向にある」ことなので、
「そう知らずそうしていた」ことについては、
「悪いことをする人がいる」世の中の心配はしても、
「悪いことをした」と、自分を心配する必要はない
と思います。似たような経験から、私もそう教わりました。ー
コロナ禍とはいえ、私たち日本人は今、
平和な場所に生きています。
そのようなとき、
他国の人達を殺すことは悪であり、戦争はいけない
と理解できます。
けれど、
戦時となれば必要悪として是認され、兵士として戦った人は「お国を守るため」とたたえられた
過去もありました。
同じ時代に生きていたとしても、
人により、環境により、属する集団や組織により、
善悪の価値観は異なる
のです。
◆善悪の基準は流動的なもの。自分がそれにどうかかわるかによっても善にも悪にもなりえる
そんな風に、善悪というのは、その基準自体時代によって価値が入れ替わる
流動的なもの
です。
だからといって、「考えなくてもいい」ということではありません。
私達は普段は考えないけれど、その場にたってみて、初めてそれについて考えるということが結構あります。
「愛ってなんだろう」なんて考え出したりするわけです。でも、それへの答えは簡単にはでない、そもそも答えなんてない、
そんなこと、いくらでもある、だからといって、
まるで考えない人と、考えて考えて、いまもまだ考え続けている人とでは、明らかに
人生への向き合い方が違う
のではないでしょうか。
移り変わる状況の中で、現実の中で、
根気よく、
一人ひとりが、
どう生きるのが最も善の生き方であるのか
考える他ない
わけですが、
「善か、悪か」ということについては
人を殺めることは、絶対に悪だ
という
善悪の判定の出発点だけ、はっきりしておく
ことが大切なんだと思います。
他のすべての人も、自分と同じようによりよい幸福を求めて生きています。
他の人の生命を守り、
そのより大いなる幸福のために助け、貢献していくことが善であり、
その反対は悪
という認識にたつことです。
生命をより豊かにし、より輝かせるのが善。
生命を委縮させ、人の生命を手段にするのが悪、
人の善意を結びつけていくことが、最高の善の行為
です。
そのうえで、
その都度起こってくる問題の中に
新しい可能性を見つけていくこと
◆生命力の強さが自分にとっての最善に繋がる
この状況をどう生きたらよいのだろう。
多くの人は、そう迷いながら生きています。
自分で考えながら
判断し、行動する中でしか、答えを得られない
のだとしたら、
本気で考え、本気で生きる気概をもつほど、その判断や行動は、自分にとって最善のものになる
に違いありません。
そのためには、
何が善で何が悪かわからないような、低次元の生き方にならない
ようにすること。
こんな言葉を使うと「古い」と言われるかもしれませんが、
命がけで取り組む経験をした人
は、
高い次元で物事をとらえるようになる
ように思います。
「命がけ」が古ければ、「真剣」とか、「道を究める」といった言葉に置き換えてもいいかもしれません。
この、
今に全生命をかけていくような、生命を燃焼させるような生き方
について、仏法ではよく
「只今臨終」という言葉で語られます。
誰しも、自分の人生にはまだまだ先があると思っています。
実際の臨終は10年先、20年先であるかもしれませんが、
過去の因も未来の果も、現在の一瞬の諸法実相に凝縮されているのですから、
今日(きょう)を充実させられない人に、明日の開花はなく、
未来の最善のためには今の最善を生きよう、
とすることは、とても大切なことだと思います。
流行りの言葉では
全集中
でしょうか。
そうした気迫をもっている人には、生命力がみなぎっています。
生命力が善悪の判断ととう繋がるかというと、
生命力が弱いとき、人はエゴに支配されやすくなり、魔が差しやすくもなります。
往々にして
歪んだ解釈をしがち
◆成長しようという謙虚な姿勢を忘れなければ、叡智によって答えを出すことができる
生命力が強い人
というと、
いかにも強そうな人を思い浮かべるかもしれません。
そうした「見かけ」や一部の人から聞く印象を鵜呑みにして、私達はうっかり騙されてしまうことも多く、
これも善悪を見誤る原因になっていたりします。
見かけだけで人を判断することは危険で、
その人の行動を見る
理性的な判断が大切です。
傲慢さを漂わせている人は、たいてい自分に本当の自信を持ってはいません。
だから何かあった時は、人に責任を押し付け、平気で嘘もつきます。
反対に、
物事に対して、相手に対して
謙虚で感謝の心がある人の内面には、静かな自信と強さがあります。
そういう人は、
何かあったときも、その問題を自分の中に引き受けることができます。
自分こそ正しい!
自分は間違っていない!
と叫ぶ小さなエゴを打ち破り、叡智によって答えを出していくことが大切です。
私達は、時々
このような立派な人が言うのだから、
という理由で
従ったほうが正しいように思う
ことがあります。
でも、その人が
必ずしも、自分の側の、或いは今みんなが置かれている状況の
事情をよく理解しているとは限りません。
その後の人生を引き受けるのは、結局自分(個人)なのだ、
ということを考えて答えを出すことが大切です。
どんなに「人から慕われる人」であっても。
あなたがその人や、その人の言うことに違和感を感じたなら、その違和感のほうが正しいこともあります。
自分の感性が、
どうも正しくない結果に終わるのではないか
と心配しているのなら、「あなたの」進むべき方向ではないのかもしれません。
なんか違う気がする、
そうだろうか、なんかおかしい
とおもいながら進んだ先で待ち受ける困難は、とうてい引き受けがたい
ものになります。
でも、それが自分が「納得したうえで」進んだ状況であるなら、後悔はしないでしょう。
人は「多数派」の意見を尊重しがちですが、「少数派」の意見が間違っているとは限りません。
あなたは、
「自分よりもいい答えを知ってそうな人」の意見に従ってしまい、
あとで「本当はそう思わなかったんだよね。」と後悔したこと、なかったでしょうか。
◆一つの正解に落ち着くより難しくて大切なことがある
たとえ、そのことに
正解がない
のだとしても、
関心を寄せ、注意を向け、答えを導き出していくことによって、正解とはいかなくとも
より精密な認識
を浮かび上がらせることはできます。
何かで苦しんでいる人がいたら、
そのためにはどうすればよいのか、
置かれた状況や相手の感情を理解しようと努め、
時には
Aかもしれない、
ときにはBかもしれない、
場合によりけりなのだとして、
行ったり来たりしながら思考し続けること。
そうであっても・・、と
悩み、逡巡する姿勢を失わないことが大切なのではないでしょうか。
私たちは
たった一つの結論に飛びつきたくなる気持ちを抑え、
あえて揺れ動くこと
を受け入れることが大切かもしれません。
(私達は
Aが善、Bが悪と仮説したとき
それを立証するため証拠固めをしようと考えます。
でも、
あなたがAを善と判断したのと同じくらい、Bを善とする事例も出てきてしまう
ということがあります。
それで、B案も取り込めるように最初の仮設を組み立てなおすかもしれませんが、
また不都合なものが出てきて・・・
こうした繰り返しの中で、仮設は次第に鍛えられていくわけです。)
一生懸命考えて答えを出し、もしも失敗や間違えがあったら修正し、他の人とも共有すればいい、
それを財産にしていけばよい、
そこからまた新しい認識も生まれるようになるのだから。
そうした思考錯誤や挑戦こそ、大切なのではないでしょうか。
万物は揺れている
のです。