◆醜い心の働きは、人の容貌をも変えてしまう
それは
これといった理由もわからないまま、始まっていたりします。
まるで
先の見えないトンネルに入ってしまった
ようで、二度とこの暗闇から出られないのではないか、という気持ちになることがあります。
「いじめ」は、悲しいかな、大人になってもなくなりません。
どうして
大人になってこういうことをする人がいるのだろう、と驚いたことは、一度や二度ではありませんでした。
物事の現象面のみに囚われ、
本質を見極めようとはしなかったり、周囲の事柄にひきずられやすい一面が
◆たいていの問題は、公的の場に出すと解決が早まる
悪意を向けてくる人達の被害にあっているとき、
「白日の下に晒す」こと、
公的な場に出して、多くの人の目の元に闘うことができれば、解決も早い
と思います。
なにか、とてもわかりやすい嫌がらせが行われ、
それを指摘することで話しあいが行われれば、問題解決も見込めると思いますが、
例えば今は、SNSなど顔の見えない相手に苦しめられることもあります。
そうではなくとも、陰湿なだけに、なかなか表には表れにくいし、
攻撃を仕掛ける側は
無抵抗そうな人を狙い
ます。
いじめに限らず
「〇〇を受け止めてくれる人」を探している人には、「○○を受け止めてくれそうな人」を嗅ぎ分けるような、
動物的な本能が高くなるように思います。
ある日突然、集団で示し合わせて無視しだす、
ということもあるけれど、徐々にエスカレートしていくことの方が、多いかもしれません。
なんかいけすかない対応をされているな、と思ったとき、
率直な指摘が功を奏することもあります。
例えば、
家族や親しい人達と普通にラインや雑談をしていて、
なんとなくその話題にのっかれないとか、どう返していいか考えているうちに、スルーしたようになってしまうことがあります。
「わかってはいたけど、返せなかった」状態になっているとき、
え。無視?!
と、突っ込まれ、
ドキッ
とした、ということはありませんか。
人は、そうした真っすぐ向けられる指摘に、案外弱いのです。
私が嫌がるって、わかってやってますよね
などと言われると、攻撃威力が弱まるというか、ネガティブエネルギーが退散してしまう
ことも多いのです。
意地悪されている側は、
意地悪なことが書かれた紙を見ないふりしたり、隠そうとしてしまいがちです。
でも、相手にとって、それは好都合だったりします。
私も、ある時からそうした紙は
もっとも人目に触れさせる場所に提示するようにしました。
そうしたことも、問題を明るみに出すことの一つ
◆自分の尊厳性を守る姿勢を貫く
けれど、あなたが
我慢するしかない・耐えるしかない
と考えれば、攻撃する側も
益々勢いがつき、いつの間にか周囲の人達まで巻き込んで攻撃をしかけるようになります。
例えばあなたは、
クラスで盛り上がっている最新のゲームや、職場で話題の人物に関心がないから、
「○○だから」、自分の側に問題があってそうされるのだ、
などと考えるかもしれません。
そうではない、と断言できます。相手は「悪気があって」やっているのです。
どんな時も
自分に誇りを持ち、尊厳性を守る
と決めてください。
加害者と被害者は、全く違うように思えて、どちらも
あなたを大切に扱っていない、
というところで同じになってしまうのです。
自分に対する諦め、無関心
という、自分への虐待から始まっていることもあります。
あなたの姿勢は、執拗な嫌がらせに立ち向かうためにとても大切
です。
これは仏法用語なのですが、
「依正不二」
(あなたが生命の主体者(正報)となって、環境(依報)を変えること。
智慧と慈悲の行動で依正の変化の連続を正しく方向づければ、皆が幸福で平和な社会を築くことができるということをいう)
とか、
「一念三千」
(自身の一念が変われば自身を取り巻く環境も変わり、ついには世界をも変えていけるという希望と変革の原理)
という言葉があります。
とても不思議なのですが、自分の内側が変わると、
問題ごと消えてしまう
◆罠にかからないと決める
悪意を向けてくる人が、一番望んでいることはなんだと思いますか。それは
あなたがパニックになったり、やる気をなくしたり、不安がりうろたえてくれること
です。
その人達自身、間違いなくなんらかの問題を抱えていて傷ついています。
自分が味わった苦しみを、他の誰かに味合わせなくては気が済まないのでしょう。
その罠にはかからない、
と決め、
自分以外の人を利用して憂さ晴らしをしようとする
人達の餌食にされないよう、
徹底的に気にしない、反応しない
そこにいることさえ気づかない、
という態度を貫く
ことも、効果的な方法です。
内気で何も言えない人であっても、これならできます。
それを
真面目に受け止めないことで、
あなたのほうが度量の大きな人間であるということ、
相手の言動がいかに子供っぽいことか
を知らしめます。
無視されても、気にすることはありません。
その人達のご機嫌をとって、幸せにしてもらう必要はありません。
◆自分の人生に責任をもつ
あなたが苦しんでいるのを見て、
こうした方がいいと思う、と忠告してくれる人がいるかもしれません。
そして、それが「正しい」と思えることもあるかもしれません。でも
自分にはとても受け入れられない、
と思うことを言われたのだとしたら、
その言葉を遮り、自分の意志を押し通す、ということも大切であったりします。
それが
大義という名目で行う自己犠牲なのか、
理想に近づくための一歩なのか
によって、この先心配事を抱えながら生きていくか、自由度が増すか別れてしまうことだってあります。
世の中には、同じような経験をした人もいるはずです。
ふと気持ちに余裕が戻ると、案外自分と同じようなことで悩んでいた
という人が見つかり、
もっと早く出会いたかった、
と思うことがあります。
そうした、自分に理解を示してくれる人達の力を早い段階で借り、
助けを求めることも大切です。
人に助けを求めたことで、
「ちくる」などの言い方をされることがあります。でも、
自分なりの正義を語ることに、
遠慮などみじんも要りません。
そうしたことの結果、時には、
自分を侮辱したりからかったり人達のいる環境から離れる
ことも考えなくてはならないかもしれません。
学校なら転校する、職場ならスキルを磨き、
そういう人達とは別の次元に移る
くらいの気持ちで取り組むことで、ゆくゆくはその人達に感謝すらできる日が訪れます。
例えば
知人は、勤めていた職場の上司に悩まされていました。
上には媚びへつらい、下で従事する者には横柄に振舞い、パートで勤めていた彼女には、ことさら辛くあたっていたようでした。
この不服な状況から抜け出すために、彼女は
実力をつけ資格を取得し、数年後その上司に「媚びへつらわれる」側に就いたのでした。
この時の彼女は「見返したい」気持ちも原動力になってたかもしれませんが、
相手をやり込めるという考えは必要ない
のです。
解決に向け、一時的に心血は注ぐことはできても、
そうした人を基準に道を考えてしまうと、
本当に魂が向かう方向とはずれてしまう
可能性があります。
自分が、積極的に幸せを掴みに行く
心構えが必要です。
そのために自分に対して、
どうやってもっと自分を助けることができるのか、
考えることが大切です。
自分の人生を大切にしているから、
という理由で選択をするなら、
◆最善にして最強の抵抗
すべてのことは、
自分を変革させるために与えられた種子
であり、
そのために起こす行動が、あなたという美しい花を咲かせます。
でも、
あなたに備わる繊細さ、デリケートさが、
「今を穏やかに生きる」ことに執着させてしまうことがあります。
「目先の目的」を達成するために、本来目指すべき理想の実現
を忘れてしまうことがあります。
あなたの純粋な心を穢そうとする、
悪意に影響されない
ためには、
いつも大きな目的のために視野が開かれていることが大切です。
少し前、
アマゾンの先住民族「カポヤ民族」への取材を通して、彼らにとっての「社会」について、「幸せ」についての考え方について書かれた記事を目にしました。
彼らには「幸せ」という言葉がありません。「不幸せ」という言葉もない
のです。
いじめや差別もありません。
それは、彼らが「全ての生命は平等」で、互いを思いやり、尊敬し、認め合っているからです。
彼らに言わせれば
いじめがあり、差別され、親子で殺し合う社会は滅びている
のです。
差別され、いじめられているあなたが悪いわけじゃない。
そのうえで、
ある意味、人生はこうした
美しい魂の質を落とそうとするものとの闘い、
あなたの志を低め、向上意欲を失くさせるものとの闘い
であるともいえます。
自分の幸福観に目覚めているなら、自分にとって一番価値のあるもの、大切なものを選び取っていくことができます。
いつも
いまより、一歩高い次元からの幸福を確立しよう
という気持ちで、
ひたすら未来に向かって進み続け、決して止まりはしない、
そうした姿勢を見せることが、あなたを傷つけようとする人達への、
最善にして最強の抵抗
であるといえます。