◆社会や運命を呪ってしまう
自分の生まれた環境が複雑で、経済的にも苦しくて、親兄弟には恵まれなくて、自分の境遇を嘆き、
自分は、なんて不幸な星の元に生まれてきたんだろう
と思っているとき、
「人生は捨てたもんじゃないよ」
などのような言葉で心を晴らそうとしてくれても、
心に届かないとき、ってあったりします。
社会や運命を呪い、幸せそうに見える人々を羨ましく思い,
どんなに頑張ったところで、所詮そういう人の足元にも及ばないのだ
という、
諦めの感情
に支配されていたりもします。
でも、人よりも条件が悪く、人よりも多くの苦労を背負っている人は、
たくさんの問題を抱えていきている人は、そうではない人より劣るのでしょうか。
◆神仏は時間差出勤
その人が乗り越えられない課題は与えらえない
そんな言葉を、聞いたことがある人もいると思います。
私もいろんな人を見ていて思うのですが、
どうしてこんないい人に、こんな災難がくるのだろう
と思うことがあります。
私個人の経験からして、魂が純粋で、
どんな話を振っても愛で返してくれて、
この人に会いに行きたい、一緒にいたい、
と思わせるような人が多いのです。
そう思う人って、何か問題が起きてもいい加減なやり方で対処したり、
逃げだしたりせずにちゃんとその問題と向き合って、見ているこちら側は
とても気の毒に思ってしまうことがあります。
でも、
ある日ばったり会った時に、
その問題が起こらなかった時には想像もできなかった境涯を
手に入れていたり、
他の人が羨むような幸せを掴んでいたりする
のです。
私も、
自分のこととなるとそう思えなかったりもするのですが、
人からは
「報われたんだね」と言われることがあります。
たぶん、今の私を知る人は、
昔の私を想像できないと思うし、逆に、以前の私を知る人は、今の私を別人だと思うでしょう。
この世に幸せなんてあるはずがない、
そう思って過ごしていたときが、私にもあります。
こんなつらい目に遭わされなくてはならないようなことを、私は何かしたのだろうか、
自分はどうしてそのような罰を受けなくてはならないのだろう、
と思わずにいられないほど、過酷な状況が続くとき、
苦労は報われるというけれど、
私だけは例外なのだ、と
確信さえしていました。
神仏は時間差出勤
と言う言葉を聞いたことがあります。
人生で与えられた状況を誠実に過ごした人には ある日
のだと思います。
◆大きな悩みを背負っている人ほど、キャパシティは大きい
あなたは、確かに人よりも苦労は多いかもしれません。
でも、考えてみてほしいのです。
これまで
自分だけ損している、と感じた出来事を、
もしあなた以外の人が背負ったとしたら?
あなたの友人・家族・同僚・知人・競争相手が同じ境遇に置かれたら
「耐えられない」「無理だろう」と思う
ことが、
あなたにはできてしまう、
それを、
自分や周囲の人がただ「不幸」と思っている
に過ぎなかったりします。
与えられているものが多い人は、その分責任が重い
のです。
あなたは、身近な人の辛い出来事を、
「それがもし、自分だったら」と
自分の身に置き換え考えることはないでしょうか。
その人の境遇などが、自分と似通っていたりすると、
彼(彼女)は、
自分の身替わりにそれを引き受けているのではないか、
と考えてしまうことはありませんか。
あなたが、他の人より
何でもできてしまう人
なだけで、
力とエネルギーを持った人ほど、条件が悪いところで苦労している
のだと、私は理解しています。
◆不幸な星の下に生まれた?いいえ、それだけ財産を得る権利が与えられているのです。
自分自身には何の問題もなくても、
例えば家族の問題に悩みを抱えることもあると思います。
私も経験していますが、
介護が必要だったり、そうではないけれど誰かの世話をしなくてはならなくなるなど、
他者の「自分勝手なこと」に振り回されるのではない、
どうしようもなく引き受けねばならない問題
というのは、
それを自分の「財産」にしていく必要があるんだ、
と言われているのかもしれません。
また、
心身にハンディをもってうまれるのは、当事者からしたら
「周りの人が、自分を助けてくれる」かのように思うかもしれませんが、実は逆で、
その人達に関わって生きるため
であったりもします。
仏法を学んでいると、
その人自身の霊性が高く、
わざわざ苦しい姿で生まれて人を導くのだと、聞いたことがあります。
その人が、その人でいるだけでかけがえのない存在である、
そうした、人生の真髄を教えてくれるその実像は、
障害のある人どころか
「世の宝」
なのです。
社会は、
わけで、おかげで私達が万が一
弱者の立場になったときにも、安心して生活できる社会になります。
私達もまた、他の人をサポートすることで自身の境地を高めてもらえるのであり、そういう意味で
は、互いが教師であるといえます。
◆人生の苦難は、自分をどこまで輝かせることができるか試すための舞台
仏法(法華経)には、「衆生所有楽」という言葉があります。
この「遊楽」というのは、
表面上の楽しみ とか、
うわべの幸福 のことではなく、
現実の社会の中で、生活の中で
自分を輝かせ、自在に乱舞していく
ことを意味します。
人生は、ひとつには
「こういうことを学びたい」という、自身の「誓願」によるもの
でもあります。
そうであるなら、この人生の劇を思い切って楽しく演じていくことが大切です。
誰の人生の中にも「苦労」がありますが、
どう苦労するかは、選ぶことができる
わけです。
もとより、
誰もが自分にしか与えられない人生
を生きています。その特権によって自分は何を知るよう、促されているのだろう、
と考えてみることも大切です。
そう考えられるようになった時から、道が開き始めたという人もいます。
もう一つには、
どんな苦難も乗り切っていけることを「証明」していく舞台である、
ということです。
宇宙飛行士の毛利衛さんも言われているように、
私達
それぞれが多様な生き方を証明しながら、
人類の未来を開いてきました。
あなたがもし、今苦難の時期にいるのであれば、
人類の歴史に影響を与える
黄金の時
を生きているといえます。
私達は苦難の中で、魂を磨きます。
自分を磨き、鍛え、成長させることのできる「苦労や悩み」は、決してマイナスではありません。
私達は何か問題を抱えたとき、それを解決できるか否か、
といったことを考えがちですが、
それよりは、
その問題について葛藤できる力を
すでにもっている、
と言われているのではないでしょうか。
風を起こせば何かが変わり、
問題も起きやすくなります。
要は、問題が起きないようにするのではなく、その問題の中を、自分はどう生きるか
ということです。
何が幸福といって、
自身の境涯を開くことができることほど幸せなことはなくて、
境涯が開花するほど魂の自由度が広がり、人生を楽しみきっていくことができるのだと私は思うのです。