家族間の人間関係について<3>受け継いだ環境を財産に変える

スポンサーリンク

家族問題は、長い時間をかけて浄化していくもの

親になる覚悟が十分にできていないまま、親になってしまう人もいるかと思います。

本当に子供がほしくて育て始めたとしても、実際の子育ては想像以上に大変で、安心して子供を育てられる環境が整っていなければ、途中で心が折れてしまうこともあるのかもしれません。

けれど、子供の側からすれば、親を選んで生まれてきたわけではありません。

望んだわけではないのに、そうした親のもとに生まれ、過酷な運命を背負って生きていかなければならない子供もいます。

家が、必ずしも「安全な場所」とは限らない。

本来なら守られるはずの場所で、寂しさや不安、惨めさ、やるせなさを抱えながら育つこともあります。

そして、その幼い頃の感情を、大人になってからもどこかに引きずったまま、生きてしまうことがあります。

親子の課題は、

「こうすればすべて解決する」

という決定的な答えがあるわけではありません。

まして、すぐに解決できる問題でもないと思います。

長い年月をかけて、少しずつ

浄化させていくもの

と考えたほうがよいのかもしれません。

それというのも、

親もまた、自分の親からの影響を受けて育っている

からです。

あなたが「宿命」や「因果」といった言葉を信じているかどうかにかかわらず、人は誰しも、何もないところに生まれてくるわけではありません。

親の考え方、価値観、交友関係、経済状況、趣味、住んでいる場所、生活習慣。

そうした、代々受け継がれてきたものの中に、ある日、投げ込まれるようにして生まれてきます。

その中には、温かなものもあれば、重苦しいものもあるでしょう。

受け継ぎたくなかったもの。

背負いたくなかったもの。

気づいたときには、すでに自分の心や生き方の一部になっていたものもあるかもしれません。

家族の問題とは、そうしたものを一つひとつ見つめ直しながら、自分の人生の中で、どう扱っていくのかを決めていく作業でもあるのだと思います。

◆ご先祖が救ってくれるのではなく、生きている私たちが流れを変えていく

少し話は逸れますが、私は仏法を学んでいます。

ただ、私の中には、「ご先祖様」を祭り立てるような感覚はありません。

ご先祖は、日々の祈りの中で回向する対象ではあっても、こちらの願いをかなえてくれる存在ではないと思っています。

亡くなると、人はどこか、人間を超えた力を持つように感じることがあります。

けれど、実際には、もう地上に降りてきて、具体的な役目を果たすことはできません。

自分の生命を現し、自分の境涯を開いていけるのは、生きている間だけです。

だからこそ、生きている私たちが幸せになっていくこと。

不幸だった生い立ちの中で築かれてしまった境涯や、家系の中に積み重なってきた無念さを、私たち自身の生き方によって、少しずつ変えていくこと。

それが、本当の意味で、ご先祖を救い出していくことにもつながるのではないかと思います。

親族がまだ生きている場合でも、同じことが言えるのかもしれません。

受け継いだものの中には、悪習慣と呼べるものもあるでしょう。

怒り方。

人との関わり方。

お金の使い方。

自分を大切にできない癖。

人を支配しようとする心。

愛情をうまく表現できない不器用さ。

そうしたものを見つけたとき、

自分はここで断ち切っていこう

という意志が必要になるのだと思います。

もちろん、そう言われたところで、何をすればよいのかわからないこともあります。

まして、親から飴ひとつ与えてもらえなかったと思えるほど深く傷ついているなら、恨みや悲しみはあっても、相手の幸せを願う気持ちになど、すぐにはなれないでしょう。

無理に感謝しようとしなくてもいい。

無理に許そうとしなくてもいい。

ただ、自分が受け取ってしまった痛みを、そのまま次へ渡さない。

自分の人生を、親から与えられたものだけで終わらせない。

その一点だけでも、大きな前進なのだと思います。

ある意味では、人生を形成する軸のようになっているものを変えるには、魂の深いところで「革命」を起こしていくような、大きな挑戦が必要です。

それは、簡単なことではありません。

この革命には、どうしても慈悲や慈愛が必要になります。

ただし、それは相手を甘やかすことではありません。

自分を犠牲にしてまで、相手を受け入れることでもありません。

本当の慈悲とは、まず自分の生命を粗末にしないこと。

自分の心を見捨てないこと。

そのうえで、怒りや恨みにのみ込まれたまま生きるのではなく、そこから一歩、別の生き方を選んでいくことなのだと思います。

慈愛で人生に挑むには、精神的な向上も必要です。

けれど、それができるようになったとき、家族問題だけでなく、人生のさまざまな問題に対しても、以前よりずっと落ち着いて向き合えるようになるのではないでしょうか。

私自身のことを考えても、もし仏法に巡り合わなければ、道徳的な意味でさえ、親の面倒を見ることはなかったと思います。

そのままでいたなら、今の私は、もっと冷たく、いじけた人生を送っていたかもしれません。

親から与えられたものの中にうずくまり、いつまでも苦しみ続けていたことは、容易に想像できます。

受け継いだものを選び直し、自分の財産に変えていく

私は茂木健一郎さんが好きで、ここでもよく書籍を紹介しています。

『挑戦する脳』の中で、茂木氏は次のような意味のことを語っています。

自分に与えられた「偶然」を、いかにして「必然」に変えていくか。

実際に置かれてしまった状況を引き受け、それを正の方向へ転じていけるか。

そこに、人間の生きる力があるのだと思います。

茂木氏はまた、

したたかに生きろ

ということも繰り返し語っています。

家族との関係に苦しんできた人ほど、この「したたかさ」が必要なのかもしれません。

親がいなくなってからも、あなたの人生は続いていきます。

家族の問題が、人生のすべてではありません。

あなたは、受け継いだものの中から不要な部分を切り離し、与えてもらったものの中で使えるものは活かしながら、さらに新しい可能性を開いていくことができます。

私も幼い頃、自分とは違い、親の愛情に恵まれて育っている子を羨ましく思ったことが、幾度となくあります。

朝起きたら朝ごはんが用意されている。

学校から帰ったら、家に明かりがともっている。

「おかえり」と迎えてもらえる。

夜は安心して早く床につく。

よい生活リズムの中で、きちんと躾けされて育てられていたら、どんなによかっただろう。

もっと品性が滲み出るような人間になっていたかもしれない。

もっと良い家に嫁いでいたかもしれない。

そんなふうに考えたこともあります。

けれど、そうした環境ではなかったからといって、自分は成長できないと決めつける必要はありません。

茂木氏は、発達にとって好ましい環境はあるとしても、そもそも「発達のために完全に最善の環境」など存在しない、という意味のことを語っています。

人間の脳は、転んでもただでは起きない。

挑戦する脳は、悪い環境に置かれたくらいのことで諦めたりはしない。

むしろ、思い通りにならなかった環境が、その人独自の感性や、考える力、創造性につながっていくこともあるのです。

もちろん、傷ついた経験を美化する必要はありません。

苦しかったものは、苦しかった。

寂しかったものは、寂しかった。

あのとき本当は、もっと守ってほしかった。

もっと大切にしてほしかった。

そうした感情をなかったことにする必要はない

けれど、それでも私たちは、そこで終わらなくていい。

与えられなかったものを嘆くだけでなく、そこから何を学び、どんな人間になっていくのかを、自分で選んでいくことができます。

私たちはみな、

大いなる未完成

の存在です。

一生涯が学びであり、その道のりそのものが、人生の充実であり、幸福でもあるのだと思います。

早くから完成された人間になろうと、焦る必要はありません。

早いうちに小さくまとまろうとすれば、いつかどこかで無理が出てきます。

大切なのは、目指す方向へ、ゆっくりと働きかけていくこと。

自分の心を整えながら、少しずつ形をつくっていくこと。

よかろうが悪かろうが、自分が置かれた環境の中に、何らかの意味を見出していくこと。

そして、目の前の課題を一つひとつ乗り越えていくこと。

その積み重ねは、やがて確かな実りをもたらします。

人は、どんな試練も、少しずつ自分の財産に変えていくことができます。

すぐには変えられなくても、

今日、少しだけ違う見方ができたなら。

昨日より少しだけ、自分を大切にできたなら。

それだけでも、受け継いできた流れは、静かに変わり始めているのだと思います。

人生の意味は、最初から決まっているものではありません。

最後には、自分の心の向きによって、変えていくことができるのです。

コメント

タイトルとURLをコピーしました