
以前、
ツインレイの道は、必ずしも「一緒になること」ではない
と書きました。
このことに気づいたとき、
私たちはようやく、魂の本当の成熟に触れることができるのかもしれません。
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以前、
病院の待合室で彼に会い、その手を握った夢について記述したことがあります
が、あえて深い解釈はしませんでした。
というより、できなかった、というのが正直なところで、
私の心が、その追及を拒んでいたのだろうと思います。
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時を経て、夢が教えていたことが理解できることがあります。
今回は、その夢をふまえて「無条件の愛」と「自立」について、改めて記したいと思います。
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あの日、私は夢の病院の待合室で彼に会い、
「どうしたの?風邪をひいたの?」と声をかけ、そっとその手を握りました。
けれど彼は、困ったような表情を浮かべ、
握った手をそっと引いていきました。
その手は、とても冷たかったことが、印象的でした。
(現実の彼の手は、いつも私よりあたたかかったのに。)
やがて彼は家族と一緒に去っていきました。
その背中を見送りながら、私の中の何かが静かに終わっていくのを感じました。
この夢を見たのは、
現実では、彼から「しばらく会えないと思う」と告げられた直後でした。
本当は心のどこかで
“もしかしたら、もう会えないのかもしれない”
と感じていたのに、
まだその感情に触れる覚悟ができていなかった時期です。
私は「じゃあ・・またね」と
明るく手を振ってみせたのですが、
「二度と会えないなんてこと、ないよね?」と冗談ぽく言おうと、もう一度彼を振り返りました。
彼はまだ、何かを考えているような面持ちでそこにいましたが、
もし言ってしまったら、それが現実になってしまうような気がして、やめたのです。
夢が
心よりも早く、真実に触れていたとも言えますし、
無意識が
受け止める準備を始めていたとも考えられます。
彼に会えない日々が続く中で、
私の心はそこに留まっていられなくなりました。
追いかけたわけではなく、
逃げたというわけでもない、
ただ、自分を守るために、
そして、もう一度自分の足で立つために、
それまで続けていた仕事全てを手放し、
土地を離れる選択をしました。
その決断は、誰かの役割や立ち位置で説明できるものではなく、
そのときの私に必要だった、大切な一歩だった
ように思います。
私が「ランナーなのかチェイサーなのかを、
無理に決めつけないほうがいい」と書いたのは、こうした経験があるから
なのですが、
なにより、
ツインレイの道は、
“ランナー”“チェイサー”という言葉だけでは
語りきれない瞬間で満ちています。
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長い月日を経ましたが、ここに至り、私の見た夢をツインレイという視点から読んでみよう、と思いました。
病院=回復と終末、関係の最終地点
感情的な“治療”と“手放し”の象徴、
愛の終着点、感情の手当てをする場所
「困った顔」ー後悔・葛藤・罪悪感・言葉にならない情
現実では語られなかった、魂同士の別れの痛みと葛藤。
誰かを深く愛した人だけが見る、あの表情。
「冷たい手」途切れた温度、過去の愛の残り火
物理的な温度が消えたわけではなく、
肉体的つながりから、魂の結びつきへ移るサイン。
“ここから先は、もう触れなくていい”と知らせるように。
「家族と去る姿」
彼は、現世での役割へ戻っていく。
私のもとではなく、彼自身の学びの場へ帰っていった。
「見送る」=解放と愛ある別れ
過去との別れ、執着の昇華、愛の形の変容
「奪う愛」ではなく
“自由と幸せを願う愛”に変わった
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この夢は、愛の終わりではあったわけではない、
魂の学びがひとつ完了した
ということ。
彼は、私の人生で
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愛の痛み
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成熟の意味
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手放す強さ
を教えてくれた存在であり、
奪う愛 → 祈る愛へ
依存 → 自立へ
執着 → 静かな慈しみへ
心が変容した時期を象徴していたのかもしれません。
もう取り戻す必要も、理解してもらう必要もない、ただ、静かに敬意だけが残っていた、ということ。
ツインレイの道は、必ずしも一緒になることではない、この言葉は
そうではなかった人には「負け惜しみ」に聞こえるかもしれません。でも
私には、この道が魂が成熟していく旅であるかのように、
相手の幸せを祈れる段階へ向かう、静かな道
のように思えるのです。
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現実では複雑な感情が絡んでいたのに、夢の中の私は、ただただ愛しかありませんでした。
混じりけのない、澄んだ愛。ただ、彼の幸せだけを願っていた、ということ、
それが、私の答えでした。
所有する愛から、祈る愛へ。
追うのではなく、祝福する愛へ。
あの日の夢は、別れではなく、
愛が澄み切ったことを知らせていたのかもしれません。
執着がほどけ、自分自身に戻るとき、
心にはただ、優しさだけが残り、
もう“形”にしなくていいのだと分かります。