覚醒

覚醒とは何か<2>神通力

7月 6, 2020

◆「覚醒」すると「神通力」が使えるようになるのか

「覚醒」という言葉を聞くと、まるで

何か特別な力を得た人

であるかのように思いませんか。

その「特別な力」を

「超能力」とか、「神通力」

のように表現することがあります。

なので、

覚醒することで、「超能力が身に付く」

と思うのも、当然かもしれません。

 

そう思って、是非とも悟りを開きたい、と思う人に

この記事は期待外れかもしれません。

仏法における

神通力とは、「人を救う力」のこと

で、

我ら衆生の作々発々と振舞うところを「神通」と云う

と、説かれています。

それは境涯を高める力

であるともいえます。

「我ら衆生の作々発々と振舞うところ」というのは、

ある人は

ビジネスマンとして、ある人は教師として、ある人は主婦、ある人は農業

というように、

社会の様々な活動の振舞が、その力を発揮すること

です。

何も特別な存在を示すわけではなくて、特別な勉強をした人でなくては使えない

ということもありません。私達は、ただ生命をもっているだけではなく、

誰もが最高の宇宙意識を持って生まれます。

要は、その最高の宇宙意識を顕せるかどうか

なのです。

 

また、

私達は普段深く考えてもいませんが、

他者の魂の覚醒を助けることを、結構している

のです。

それをしないと、

自分の成長もとまってしまうし、

 

自分が成長し続けるためには、

絶え間なく人に与える

ことが大切だと、魂レベルでわかっているのではないでしょうか。

 

あなたは、知らず知らず

他者から何かを与えられているし、あなたも時々に形をかえ、他者に何等かを与えています。

あなたが

何らかの良い働きかけをしたなら、それに影響される魂がある

わけで、

だから、私達は

率先して人に会い、良い働きかけ=励ましたり、褒めたたえたり、共感しあったり

といったことが大切なのです。

 

 

この世界は、

本来真理と知識を解放しあう者たちの住まう場所であり、

「解放」することが成長のカギ

といえます。

 

時に、

自分のことだけを考え、人のためには何もしようと思わない人もいます。

そのような人の

エネルギーは低く重くなり、見ていても明らかに停滞を感じます。

執着心の強い魂・自己中心的な魂は、自分の成長を遅らせ、人の成長をも遅らせます。

自分だけが高いレベルに達しても、(地球の)仲間の

波動を上げるような行動をとらなければ、

内面的に崩壊していきます。

そのような人達は、

何度も

同じ状態に戻って、執着をなくすこと、解放することの意味を学ぶことになります。

その現象を「罰」という見方をする人もいるし、後々になって「贈り物」だったという人もいます。

どのように見えても、根底にあるものは、ただひたすらの

慈愛

です。

 

確かに、

肉体に閉じ込められている状態の私達に、全容の解明はできません。

これまで、それを解明しようと多くの方々が取り組んでいますが、それを証明できる手立てはないし、

ある地点から先は人が踏み入ることができない、厚いヴェールがかかっているのでしょう。

魂のふるさとに帰還するまで、答えを知る必要はないのかもしれません。

私達は

知らないまま体験すること

が、大切なのかもしれません。

◆健全な良識を離れた能力は、なんの役にもたたない

翻って、

超能力で空を飛べたところで幸福になれるわけではありません。

人から

凄いね!

と言ってもらったり、そのおかげで有名人になれるかもしれませんが。

例えば「芸人」となり、その特技を生かして

人を幸せにしたり、癒すことができるのなら、凄いことです。

 

「超能力」については、こんな面白い話もあります。

ある苦行者が15年もの隠匿生活を終えて帰郷し、お兄さんに

何を悟ってきたのか

と聞かれたそうです。

弟は兄を河まで連れて行き、得意になってその水面を歩いて渡ってみせたのでした。

しかし、兄は渡し守を呼んで

平然と船で河を渡り、代金を支払って弟にいいました、

おまえは、私がたったこれだけのお金で手に入れるものを獲得するのに、

15年も苦労したのか

元は「悟り」を得たいという思いから始まった、と考えれば、

志の高い人であったに違いありません。('ω')ノ

でも、「水面を歩く」ことで満足してしまったのは、残念ですよね。

このお話しを「笑い話」と片づけることもできないと思います。

本来の目的を忘れ、途中で得た喜びにどっぷり浸かってしまうことがあります。

誰しも、最初は崇高な心をもって努力するのだけど、途中で

例えばお金という魔力に魅入られて、

「そのために」、「その途上にあるもの」に人生を捧げてしまう

ことがあります。

 

河を歩いて渡れても、水に長く潜れても、あぐらをかいて飛び跳ねることができても、

人間性や人生観の向上には繋がりません。

かつての修行僧の課題は

 

生きていくうえで避けては通れない

「生・老・病・死」に伴う苦しみ

ー 生まれ、生きる苦しみ、

老いる苦しみ、

病む苦しみ

から、どうやって人を救っていくか

ということだったのです。

 

人生の現実との格闘を避け、安易に幸せや悟りを求めようとするほど

「健全な良識」からは離れていく、

このことを、この説話は端的に表わしているといえます。

 

© 2025 Hasuliking Powered by AFFINGER5