◆覚醒は考えても理解できない。生命で理解することだから。
スピリチュアルな世界を語る文面の中で、
よく
覚醒する
などという言葉にであいますよね。
それって具体的にどういうことなのだろう、と疑問を感じたことはありませんか。
私なんかは、やたら「覚醒します」などと言われると、なんか都合よく
はぐらかされているような気持ちになってしまうのですが、
このことについて、知らなくてもほぼ困ることはないでしょう。
普段の会話で登場する言葉ではないですし、
友人知人に聞こうという気にも、なれないかもしれません。
あなたはどうですか。
覚醒というと、
瞑想とかヨガとか、仏陀を思い浮かべる人もいるかもしれません。
私はというと、依頼されてスピリチュアルサイトで記述したことはありますが、正直
あまり考えたことはないのです。
仏法に無関係な言葉ではないのですが、私の周りでもあまりこの言葉を使う人はいません。
その代わりに
「無明」とか「悟り」といった言葉を使います。
仏陀は
「覚者」の異名をもち、
インドの釈尊はその覚者として
知られています。
では、
何を悟ったのでしょう。
それは
自身の生命には、尊極な仏の生命が宿っているのだ
ということです。
あなたも、あなたの周りにいる人にも、もれなく仏の生命はある
のであり、
あなたにはあるけど私にはない
ということはないわけです。
覚醒とは、
それ(仏の生命)をしっかりと自分のものにできること
を言います。
それを言葉で理解するだけではまだ途中で、
自分の生命で理解しなければ、本当の覚醒とはいえない
と言われています。
◆覚醒とは、自在な生命の働きと力をしっかりと自分のものにすること
誰でも、死ぬ時は、
生まれた時よりも進化した魂になっていたい、より一層磨かれた魂になっていたい
はずです。
生まれた時より悪い魂になるために、修行の場に出てくる人はいないと思うのです。
人生の目的は
自分革命
です。それは、
自分の劣等感に囚われず、人生の全肯定を勝ち取っていく歩み
であるともいえます。
このブログでは、ツインレイについても触れていますが、この関係が
素晴らしいと思うのは、
無償の愛に生きることを目指す中で、自身を進化させていくことができる
ことです。
真実の愛を知ると、
それによって世界観は広がり、自ずと人生は変っていきます。
その関係の中で、
心の内側に目を向け、死生観についても考えるようになっていきます。
精神世界について考える人は多いと思うので、
そこから
生命をどのように使うのか、
自分が生かされている意味について知りたい、
と渇望するようにもなっていくでしょう。
私達の生命は、永遠であり、
自在なる「空」の存在です。
この自在な生命の働きと力を
しっかりと自分のものにすることが
覚醒なのだ
◆覚醒とは、心の束縛を脱する力、絶対的な幸福を手にいれること。
もう少し、具体的な話をしたいと思います。
たとえば、
先日、若年性アルツハイマーになった方の人生について紹介している記事を見かけました。
その方は、そう診断された当初、
人生終わった、
と思ったそうです。そして、暫くは引きこもり状態であったのですが、何かを機に
「自分にしか見えない世界を発信していこう」と、日常をSNSで配信するようになり、
少しずつ
自分を受け入れながら、今できることを進めていくようになりました。
これだけ聞くと簡単なことのようですが、
いざ自分がそうなったとき、「その人生を受け入れる」ということがなかなかできないだろうし、ましてや、
劣等感を抱くことについては、なるべく公表したくない、できれば隠しておきたい、と考えるものです。
その 苦しみを突き抜け、新しい自分になって動いていく人のこと
を覚醒した人、というのだと思うのです。
私達は、誰もが「特殊な」或いは「個人的な」体験をします。
その苦しみから逃げるのではなく、受け入れ、堂々その真ん中を歩いていくこと、
魂の力を引き出し、
自らの実感をもとに癒しの手を差し伸べ、智慧を尽くしてより幸せな社会を築いていこうという
覚醒は、使命にも通じています。
◆誰もが覚醒できる。人生への全肯定を勝ちとる歩みの中で。
仏法に精通していない人も、
「十界論」はご存知だと思います。
それに照らして言えば、私達の最高の境涯は
地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界のうちの「仏界」であり、
「仏」の境涯です。
私達は人が亡くなるとき、よく「成仏」という言葉を使いますが、この言葉の本当は
仏の境涯になること
で、本当は
私達は「生きている間に」その境涯を手に入れることができる、つまり「成仏できる」のです。
ここまで話してて
「覚醒」は面白そうだけど、
「そんなのはいいや」と思ってしまうかもしれません。
面倒くさいし、今の平凡なままでいいや、って。
でも、
生きていること自体が、楽しくて楽しくてしょうがないという境涯
を手に入れられるとしたら、どうでしょうか。
私という存在そのものに最高の価値があると知ること
は、そのような境涯を手に入れるということで、
本当のワタシになるということ。
何者によっても紛動されない最善最強の私になるということ。
あなたが
「私」と言うとき、その「私」という文字の中には既に
「仏」という文字が入っているのです。
「覚醒」は、「使命」とも深く関わっています。
使命は、
あなたのやむにやまれぬ思い、
他の誰にも、自分と同じ苦しみを味わってほしくない、
とか、
同じ体験をしている人の支えになりたい、という気持ちによることが多い
のではないでしょうか。
誰しも、身近な存在はかわいいです。
その思いが、他人にも他の民族にも、他の生物にも及んでいくことが大切で、
大きなものも、小さなものも、すべてを超えて、一切に慈悲が及ぼされることが大切です。
全ての「限り」を超えた慈悲の心を持ち続けることこそ、最高の悟り
です。
宇宙そのものが慈悲により営まれている
と言われています。私達はそれと合致した生き方をしていくことで、
誰もが
幸せの軌道にのることができます。