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はじめに──「覚醒」という言葉に感じる違和感
最近、スピリチュアルな話題の中で「覚醒する」「覚醒しました」という言葉を目にする機会が増えました。
けれど、
その意味を本当に理解している人は少ないかもしれません。
私自身も、
「覚醒ってなに?」と聞かれると、どこか
抽象的なまま言葉が浮いてしまう感じがしていました。
瞑想?ヨガ?仏陀の悟り?どれも遠いようで、実はすぐそばにあるかもしれないもの。
覚醒は、考えるものではなく“感じるもの”
そもそも、
**覚醒は「考えて理解するものではない」**のだと言われています。それは、
生命で感じ、生命で掴むもの。
つまり、
「理屈」ではなく「体験」と「納得」から生まれる深い理解なのです。
自分の中の仏性に目覚める
仏教の教えでは、
仏陀は「覚者(目覚めた人)」と呼ばれます。
仏陀が悟ったのは、
自分自身の中に尊い仏の命が宿っているということ。
そしてそれは、
私たち一人ひとりにも同じように与えられている命です。
「あなたにはあるけど、私にはない」なんてことはありません。
誰の中にも、平等に仏の生命が息づいている。
そして覚醒とは、
その仏の生命を「知識として知る」のではなく、
生きた実感として、自分のものにしていくことだといえるでしょう。
自由な生命の力を取り戻す
「覚醒」とは、生命の本来の力と自由な働きを取り戻すことです。
現代に生きる私たちは、
社会の価値観や過去のトラウマに縛られ、知らず知らずのうちに「こうあるべき」という枠に自分を押し込めています。
でも
本来の私たちは、もっと自由で、もっと深い愛と智慧を持っているはずなのです。
それは、
苦しみや困難を「意味ある体験」として受け入れ、そこから新しい自分へと進化していく力。
まさに、自分革命と言えるのではないでしょうか。
誰にでも起こりうる「覚醒」の瞬間
先日、若年性アルツハイマーを患った方の話を聞きました。
診断された当初は絶望の淵にいたその方が、
やがて「今だからこそ見える世界を発信したい」とSNSで日常を綴るようになり、
自分自身を少しずつ受け入れていったのです。
自分の現実を受け入れ、そこから光を見出して歩き出す。
この力こそが「覚醒の証」だと思うのです。
日常の中の覚醒──朝の光のように
私は、夢を解釈していますが、
覚醒とはまさに「朝の目覚め」のようなもの
かもしれません
それは、先の見えない暗い時を超え、朝の陽ざしに希望を見出す時のように、
もっと身近で、私達のすぐそばで起きていること
のように思います。
何か特別な修行をしなくても、
誰にでも覚醒のチャンスはあります。日々の苦しみや葛藤の中で、
「それでも自分を生きよう」と決めたとき、人は少しずつ束縛から解き放たれていきます。
覚醒と使命──他者の幸せとつながる生き方
覚醒とは、使命に目覚めることでもあります。
「自分と同じように苦しむ人の助けになりたい」
「誰かの心に灯をともしたい」
そんな思いが湧きあがるとき、私たちの魂は新しい段階へと進化します。
それは、
単なる自己実現を超えて、「他者の幸せとつながる生き方」へと変わっていく。
そしてこの慈悲の心が、すべての命に通じていくとき、私たちは宇宙と響き合うような感覚を得るのです。
覚醒は「生きることが楽しくてたまらなくなる」境地
もしかしたら、「そんな覚醒なんて、別にしなくてもいい」と思うかもしれません。面倒だし、今のままでいいや、と。
でも想像してみてください。
「生きていることが楽しくてたまらない」という境涯。
「私という存在に最高の価値がある」と実感できる日々。
おわりに──「私」という存在に最高の価値がある
覚醒とは、「特別な誰か」だけのものではありません。
誰もが、人生のどこかで、それを手に入れるチャンスがある。そして、
あなたが「私」と口にしたとき、すでに
その「私」の中には、仏の命が光っているのです。