スピリチュアル ライフスタイル

「どうしてこうなったのか」運命を呪って生きていませんか。

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◆思い通りにいかないのは「当たり前」のこと

幸運を喜ぶ時、私達は

「奇蹟が起きた!」

 

「ラッキー!」などと言いますよね。

 

「どうしてこうなってしまったんだろう・・」などという言い方はしません。

 

その言葉が口をつくのは、自分の思惑と外れた結果に嘆き、悲しむときではないでしょうか。

 

そんな時、私達は自分を責めています。

 

「なぜ、あのとき、○○できなかったんだろう」

 

「どうしてあんなこと、言っちゃったんだろう」という風に、過去に遡り、いつまでも罪悪感に打ちひしがれていたりします。

 

ただ、人生で起きる殆どのことは「あれをやれば絶対にこうなる」という単純なものではないはず。

 

たった今落としたグラスでさえ、偶然キャッチできることもあれば、あっけなく割れてしまうこともあります。

 

冷静に考えれば理解できるし、当たり前のことなのになかなか「受け入れる」ことができません。

 

それは、私達が「感情」を持つ生き物だからでしょう。

 

◆「受け入れ」て生きたら?受け入れなかったら?、と考えてみる

 

随分前に読んだある記事(ひょっとしたら映画の評論だったかもしれない)に書かれていたことを、私は時々思い出すことがあります。

 

その記事は、私に「受け入れて生きる」ことの大切さを訴えているような気がしました。

 

うろ覚えなので間違っているかもしれませんが、こんな話だったと思います。

 

ある少年が母と二人で生活をしていました。

 

極貧生活でしたが、少年は大好きな母親と一緒にいることができて幸せでした。

 

ところがその母は若くして亡くなってしまうのです。

 

少年は他の親族をしりませんが、離別して暫く会っていなかった父親が少年を引き取ることになり、迎えに来ます。

 

少年は父親を知らないので、始めは不安を覚えますが、「これから一緒に旅行しよう」と言われ、ついていこうと決めるのです。

 

生まれて初めての旅ー少年の心は少し弾みました。

 

父と息子は電車に乗り、暫く一緒に過ごすのですが、翌日父親は少年を養護施設の前に置いて去っていったのでした。

 

父親とはそれきり。

 

それから数十年、少年は真面目に生き、社会に出てルポライターとなって各国を旅するようになります。

 

彼は言うのです。

 

「私は父親を恨んではいない。当時の父の心境も理解できるし、私を養っていくことはできなかっただろう。

 

自分は今こうして生きている。私は自分の運命を受け入れて生きている」

 

彼の記述の中には、父親に対する慈愛さえ読みとれ、父親に対する恨みつらみは一切感じませんでした。

 

たぶんもっと深いものが込められていたと思うのですが、それがこの文章の中でできなくてお申し訳なく思います。

 

何故、これほど強く印象に残っているのかもわからないのですが、たぶん何かと後悔しがちな私には、戒めとなっているからでしょう。

 

◆二度と体験できないこの人生を愛し、生きていこう

 

全ての物事は、ほんの些細なことが積み重なって、その複雑な方式の上に成り立っています。

 

言い方を変えれば、あらゆることは「偶然の産物」、私達の行動は全て「偶然」に委ねられているのです。

 

日本の哲学者「九鬼周造」は、そうした「偶然性を愛せよ」と言います。

 

あなたは、そうした偶然の出来事がもたらした結果のために「自分が嫌になる」と思うこともあるかもしれません。

 

けれど、それは決してあなたの責任ではありません。

また、私達は悲観的な思考にいるとき

 

「可能だったことが不可能になった」ように思いがちです。

 

けれど

 

「不可能が可能になった」結果、今の自分が存在するという見方もできるわけです。

 

自分自身を受け入れることは、偶然がもたらした運命を認め生きることでもあります。

 

私達は生まれ変わりますが、同じ家族・同じ友人・同じ同僚の中で生きることは二度とないでしょう。

 

二度と体験しないこの人生を、今の運命を愛して生きて欲しいと思います。

 

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