◆自分だけの幸せを追い求めても、本当の幸せにはたどり着けない
よく、「自他共」の幸福が大切だといわれます。
でも、現実は
自分のことに精一杯で、人のことなんて考えていられない!
という時期もあると思います。
そんなときに、「善」を絵に描いたような顔をして
人のためになるように生きる
ことを強いられたら、
この人は何もわかってはいない、口もききたくない
と思ってしまうでしょう。
ほとんどの人は、そう考えることが大切なことくらい、わかっているのです。
そうではなくとも、
自分のほうが助けてもらいたい時に言われると、難しいことを強いられているような気がします。
そもそも、自分が幸せになるために、
なぜ人の幸せを考える必要があるのか、
と思ったりするかもしれません。
それは単なる思い込みや、道徳的な見解なのでしょうか。
実はサイエンスも
利他の精神について、その「必要性」を証明している
のです。
私達の身体は、細胞分裂を繰り返すことで身体の調和を図っています。
言い換えると、
身体の調和を図るために、私達の細胞は死を選ぶことがプログラミングされていて
私達の「生」そのものが、利他的な働きによって支えられている
のです。
この働きがなければ、私達は生きることさえできません。
また、私達が現在までこうして進化し続けてきたのは、
祖先たちの心の根底に利他の精神が脈打っていたから
です。
こうして細胞レベルで、
あるいは本能としての利他的な働きについて思いをはせるとき、
なぜ人を幸せにすることで、自分も幸せになれるかと問われたら、それは
他の「生」に意識変革を起こせるから、
その行為が、
実は自分の「生」にもダイレクトに働きかけることになっているから
だと考えられるのです。
私達は人に手を差し伸べながら、自分を助けているのです。
ただ、自分のしていることは、
相手の心に届いているかどうかさえわからない、
微かで揺らぎのようなものでもあります。
それでも、
私達はたいてい、
あらゆることの中に「意味」を見出だしながら生きています。
あなたもそうではありませんか。
人は、
小さな、心からの働きかけの中に、価値あるものを見つける才能をもっています。
ほんの少しのきっかけが、
その人に、
価値のないものを捨てさせ、
よりよく生きる方向へと動き出させることがある!
のです。
また、
人の「生」に「善く」働きかけることで、あなたは
自分にはその力があるのだ、という自信とともに
生きられるようになります。
いうまでもなく、
外側の世界は、あなたの裁量にも相応しているので、
必然的にあなたの生の質を上げていく
のです。
そういう生き方が習慣づいている人は、
どんなに年を重ねてもフレッシュで若々しい
感じがします。
何を食べて生きていたらこんな風に元気でいられるのだろう、と考えさせられることがあります。
◆欲張るほどに、人の幸せも応援できる
人を「幸せにする」
なんていうと、大変なことを強いられている気がしてしまうかもしれません。
シンプルに、その気持ちを大切にする
のがよいのだと思います。
私も長く勤めに出ていたので思うのですが、
普段人当たりがよくて、「優しい」人だと思っていても、
ひとたび自分の意に沿わないことが起きると顔色が変わったり、
別人のように体制を変える人がいて、驚くことがあります。
勿論、人間なので感情的になることはある、と考えても、
「人の出方次第で」態度が変わってしまうのでは、いつまでも外側に翻弄され続け、
自分の弱い生命に振り回され続ける
ことになります。
自分がどんなに優しくしたところで、そういう人には優しくしたくない、と考えるのでは、
自分の境涯を開いていくことは難しい、
でもだからこそ、私達はもっとたくましくなって、
誰がどうであろうと自分はこうあろうとぶれない生き方を示していく必要がある
のでしょう。
そうしてびくともしなくなっていくと、人間関係に悩まされることも少なくなっていきます。
あなたも私も、「幸せ」になりたいと思っています。
その気持ちを強くもって、
もっともっと欲張って生きることが大切
です。
今は、
本当の意味で、欲張って生きている人は少ない
といわれています。
本当の意味で、自分の利益を願う人は少ない
◆「人にやさしい」だけでは弱い
人によくすれば、それは必ず自分にかえってくる、
とよく言われます。
それを信じて、私も人にはなるべく親切にして生きてきたつもりです(^_^;)
が、
そうして生きてきて思うのは、
それだけでは「幸せになる」力としては弱い、
ということです。
うがった目で見てるなぁ、と思われるかもしれませんが、
「優しい」は、必ずしも相手への「尊敬」を示しているとは限らず、
そのやさしさは、相手への「敬意」に裏打ちされていなければ、
とても脆い
のです。
自分のことを振り返っても、
自分がただ、やりやすくなるからそうしているだけ
のことだってあります。
この人は、自分なんかには及ばないほど素晴らしい人なのだ、
と思うほどその力を信頼し、大事にすることで、初めて確かなものとなり、
本当に相手の心に通じるようになります。
元より、誰もが「この世界をよりよくしよう」という、
同じ志をもって苦悩の海にダイブした同志です。
教育の現場でも同じです。
子供や年下の人にやさしくするのは当然だとしても、
そこに「敬意」がなければ、大事にしているといっても甘やかすことにさえなり、
自分を乗り越えさせることはできません。
後輩を本当に育てようと思う人が、自分に挑んでくるようになれば嬉しく思うように、
その人が反抗しても、
自分を乗り越えていくのだ
と思えば、嬉しく感じるものです。
だから優しさは
◆幸せになる、とは境涯が変わること
私は仏法を学んでいるので、
境涯
という言葉をよく使ってしまうのですが、
幸せとは、境涯を広げること
であるといっても言い過ぎではないのです。
それは、
あなたの自由度が高くなること
を意味します。
どうやって自分の境涯をはかれるのか?と思うかもしれませんが、
自身の境涯が変わると、同じ事が起きても、見え方・感じ方・とらえ方が変わります。
仏法では
餓鬼の者は恒河(ガンジス河)を火と見る。
人間は水と見る。
天人は甘露と見る。
という言葉があります。
同じ水でも、見る者の境涯の違いによって、見え方は別々なのである
ということを言われています。
あなたも、過去に起きたことを
あの時は大変だった
と振り返りつつ、
今思えばなんてことなかった、
と思ったりはしないでしょうか。
境涯を革命することによって、
自在に力を発揮できるようになります。
それは
無限に究めていくことができます。
そのコツさえつかめば、あなたは何があってもすべてを悠々と乗り越えていけるようになります。
外の世界が泥沼のようであったとしても、
あなたの心が「天界」(十界のひとつ)にあり、荘厳な宮殿の中にありさえすれば、
どんな場所にいても幸せでいられます。
そこには
豊かな庭園があり、立派な殿堂があって、種々の宝で飾られています。
宝の樹には、たくさんの花が咲き香り、多くの実が実っているのです。
天の住人達は舞い踊り、妙なる音楽を奏でています。
そのような遊楽の場所に、あなたの心がありさえすれば、
生きていること自体が楽しい
そう思える人生になっていくでしょう。