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何が善で何が悪ですか

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◆何が善で何が悪か、見分けることはできるのだろうか

 

 

◆何が善で何が悪か、「悪」を「善」に変えていく闘いの中で理解することもある

 

 

何が善で何が悪なのか、釈尊の教えから学ぶ

 

 

◆何が善で何が悪か、見分けることはできるのだろうか

 

私自身、この答えを探しながら日々を送っていたことがありました。

 

「ありました」という過去形であることから、この問題を解決したのかというと、申し訳ないことにそうではないのです。

 

つまるところ、自分の生命でそれを感じ取っていくことしかできないのだと思います。

 

例えば、「怒り」という感情は「悪」であるかのように感じることは多いと思います。

 

けれど、「いじめは絶対に許さない」というときの怒りは「善」の心から生まれます。

 

Aさんにとって「悪」だと思えるような人であっても、Bさんにとっては足を向けられないほど有り難い人であったりする、そんなこともあるのではないでしょうか。

 

「殺人」とか、世の平和を乱すものとかのレベルの出来事でなければ、判定できるのは、せいぜい「自分にとって」の悪なのかどうかということであり、それさえもその都度の価値観によって変わってしまうことがあります。

 

哲学者カントは、正しく生きるには、人格の自律が不可欠だと考えた人です。

 

また、

善悪志とは、道徳的義務に自覚的で、それを尊敬するがゆえに自主的に従おうとする意志

 

であるという、「善悪志」の概念を掲げました。

 

確かに、その時々の自分の生命状態によって善悪が変わるかもしれないということも考えると、まず自分を律することが大切ですよね。

 

◆何が善で何が悪か、「悪」を「善」に変えていく闘いの中で理解することもある

 

ここで一つ質問です。

 

あなたが過去「悪」だと思ったものは、現在も「悪」のままでしょうか。

 

善悪は、時とともに変わることもあります。

 

もしも「前は悪だと思っていたこと」が、「今は善と思える」のなら、それはあなたが過去の悪(だと思えるもの)に打ち勝ったり、その時の自分を超えたからであるといえます。

 

例えば「悪」と思えるものが人であったとします。

 

それは「舅・姑」だったりするかもしれません。

 

今はそれほどないと思いますが、かつて私は四世帯の家に居住していて、姑には四六時中監視されていました。

 

あることないこと全てを近所の人に触れまわって、時にはプライバシーに触れることさえ言われ、私はこの人こそ「悪」だとさえ思いました。

 

なんとか☺理性を保てたのは、単に「道徳」に従っていたからでした。

 

当時も既に仏法に関心を向けていたので、自分の中の憎悪とも呼べるような感情に対峙しながら、平和に生活できる道を必死に模索し続けました。

 

そして姑が亡くなった時になって、はじめてその人を「善」だと知ったのです。

 

私は職を持っていたし、あまり近所に顔見知りはおらず

「きっと自分は笑われている」と思っていたのですが、皆口々に

「大変だったね」と言ってくれ、中には「嫁さんを泣かすんじゃない!”と怒ってやったからね」と言ってくれた人もいました。

 

私は自分の気持ちの処理に精一杯で、周囲の人の優しい眼差しに気付かなかっただけなのでした。

 

姑は、私に沢山の人との繋がりをくれていたのです。

 

もしも私が「道徳」に背いたことをしていたり、口論していたとしたら?

 

私はきっと「本当の悪」(自分の弱い心)に負けていただろうし、住む場所にも困っていたかもしれません。

 

結局は「悪」だと思えることを「善」にかえられるのは自分なのです。

 

◆何が善で何が悪なのか、釈尊の教えから学ぶこと

 

あなたにとって、それは私のようなこととは違い、道徳的に絶対に許されない行為の「悪」であるかもしれません。

 

そのような時に、それは「悪」だと世間に証明するには、二つの心と闘わなければなりません。

 

まずは「内なる悪(諦め・逃避など自身の内側に巣くう悪)」に、

 

そして「外なる悪(相手の生命を奪う・傷つけるなど)」に。

 

どのような時にも「自然に放置していて」善悪を立証することはできないからです。

 

あなたの善が証明された時、初めてその「悪」だと思っていたものも善にかわります。

 

その「悪」が自分の生命を鍛えるものだからです。

 

釈尊にとっては、題婆達多の妨げがあってこそ、自分が正しいことが証明され、成仏への道を開きました。

 

極悪と戦うから、極善になるのです。自分の生命をきたえ、成仏させてくれるという本質論から見たときには、その極悪も師匠とさえ言えるのです】
(法華経の智慧 第三巻 悪人成仏より

善悪不二・邪正一如などの仏法用語の意味をはき違えて

善も悪も、正も邪も肯定」しているひとがいるしかし、これだとやりたい放題、言いたい放題の悪人をのさばらせてしまう

 

あなたを更に強くさせるもの、生命をよくするものが「善」であるともいえます。

 

負けてしまったなら「本来その中にあった善因さえもいかすことができない」という意味において、この世界の勝敗も大切な学びなのです。

 

 

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