◆どこまでが善でどこからが悪なのか
前回、あなたを支えてくれる人や幸せのために働きかけてくれる存在を、仏法用語で「善知識」であるとお話しました。
反対に不幸に陥れる人のことは「悪知識」と呼ばれています。
実際には仏法を妨げる者という意味で使われていますが、私達の日常でもこれをあてはめ、考えてみたいと思います。
「善」とか「悪」の働きかけは理解できても、その判別は難しかったりします。
例えば、可愛いはずの我が子も、年齢によっては親の邪魔をしたり反抗することもあります。
可愛い我が子のことを「悪」だなんて思いたくないし、思えません。
スピリチュアルの観点から言っても、自分の周りにいる人はみな「ソウルメイト」なのではないのだろうか、そんな風に思ったりもします。
まさしく 私も「善」も人によって見方が変ると思ったり「悪」をどのレベルからを言うのかといったことを考えた時期があり、そうした日常的な違和感が仏教を学ぶきっかけになっていったのだと思います。
その違和感を払拭したのが、釈尊の教えです。
「題婆達多」という名前を聞いたことがある人は多いと思いますが、釈尊の従姉妹にあたる人で慢心が強く、最初は釈尊に帰依していたのに、次第に自分こそが一番偉いんだ!と釈尊に敵意を抱くようになっていきます。
そして、山から石を投げたり、象を使って殺させようとしたりしました。
「嫉妬が半端ない男」の代表でもあるんですね(^_^)
そうした悪行の限りを尽くしてきた奴を、釈尊は「未来には天王如来となるだろう」と告げているのです。
いやいや。釈尊は「いい人だからね。」
「罪を憎んで人を憎まず」と言いたいのではないだろうか、と考える人もいるかもしれません。
それもあるかもしれませんが(^_^)
そこにはちゃんと理由があるんですね。
◆悩みや課題を力や財産に変えることが大切
大きな視点にたって物事を見たとき、あなたを本当の意味で幸せにする人、成長させてくれる人というのは、自分が悪役になっても叱咤してくれるような「親」であったり、会社の上司だったりライバルだったりするのではないでしょうか。
釈尊にとっては、自分の成仏の機縁となったのが題婆達多だったというわけです。
そうした妨げがあってこそ自分が正しいことが証明され、成仏への道を開いたからです。
ただ、
「題婆達多って、本当はいい人なんだぜ」と言っているのではなくて、自分自身が強くなり、現実には悪いことに見える事象を「自分が変えていく」ことの大切を教えているのです。
<1>の最後でお話したように、一見「善い」とは思えないことの中に、自分を鍛える好機が隠れています。
ページの最初に子供の例を出しましたが、親を成長させるのも子供の役割なんですよね。
どんな事も智慧を出し力を尽くし、誠実に価値を創造していくことで自分の中の善が育っていくし、ひいては誰にも奪われない財産となっていきます。
「生命の実相は善悪不二」とも言われていて、自分の生命は縁に触れて悪くも善くもなりえるものです。
「善」と思えることの中にはあなたを甘い言葉で誘い、現実逃避させようと仕掛けてくるものもあるので注意が必要です。
これについては<4>でお話したいと思います。