◆過去の失敗は、本来体験するべき大事な過程
あなたは、
その失敗や過ちのない人生を生きたかった
のでしょうか。
例えば
成績も運動神経もよく、友達にも恵まれ、仕事も私生活も順調で、何も不自由したことがない!
という、社会的欠点が一つもない生き方ができたとしたら、それは
よい人生だった
のでしょうか。
屈辱や悲しみ、失望などといった感情や感覚を経験をすることなく、人生を終えてしまったとしたら、
それは
人として与えられた機能を使いこなせないまま人生を終える
ことにならないでしょうか。
「失敗」は、あなたが「それを経験した」ことの証です。
私は転生輪廻を信じていますが、
あまりに失敗のない人生を送ったとしたら、たぶん
次の人生(試練)が怖くて挑戦することができなくなるだろうな、
と思います。(^_^;)私はとても臆病なのです。
私の人生は、経験したくないことをすべて避けて生きてきてしまった、と言う意味において、とても
不完全であり、
自分の実力を試すこともなかった、と非常に情けない思いをすることになると思うのです。
◆過去の過ちに対しては二つのステップを終了したら忘れるだけ
あなたが
未来を透視したり、
過去をかえる力は持っていない
という体でお話ししているのですが、
私達にできることは、経験を
建設的に生かす
ことだけです。
その経験はしっかり「分析する→ 学ぶ 」というステップを終了したら、
忘れるようにすることが大切
です。
今回は仏法の説話を二つ、紹介したいと思います。
二人の修行僧が川を渡れず困っている女性を見かけます。
彼らは女性に触れることを禁じられている身です。
けれど、修行僧の一人はその女性を抱えて川を渡ることにしました。
無事向こう側まで渡り、その女性を下ろすと、修行僧は何事もなかったように歩き出しました。
もう一人の修行僧はこう言うのです。
私達は女性に関わることを禁じられているのに、君は抱きかかえて渡った
と。
すると女性を抱えて渡った修行僧はこういうのです。
私はすでにその女性を下ろした。君はまだ抱えたままなのか
もう一つ、「筏の譬え」というのがあるのですが、
ーある人が、
船も橋もない岸を渡るために、木や枝を集めて「筏」をこしらえ、無事に対岸に渡ります。
そのあと、この人はこう考えます。
この筏は大変役にたった。
この筏のおかげで大河を渡ることができた。
さぁ、次に私はこの筏を担いで道を歩いて行こうー
ここで、釈尊は弟子たちに質問します。
この人は適切な行動をとっているか?否か?
弟子達は「否」といい、釈尊はこう続けたのです。
この筏は、大変役に立った、
このおかげで大河を渡ることができた。
さあ、
私はこの筏を河中か岸辺において、道を歩いていこう
このように言う人こそ、
適当な行いをした人である、
のだと。
人は過去の出来事を、
自らの「戒め」として忘れずにいよう
と思うことがあります。
再び同じ過ちを犯さないように。
勿論
前に進むための「教訓」として利用することはできる
けれど、
その後悔があることであなたが前に進めないのだとしたら、
それはお荷物でしかない、
ということです。
その過去は、あなたの意識を高めてはくれません。
悪魔のように付き纏い、
「罪」とか「罰」という考え方に囚われるよう、網を投げかける
だけです。
◆過去の過ちを許せることが、一つのミッションだとしたら?
あなたが
過去の出来事によって変化し、よりよく発展していくことで、
過去の視野より今の視野のほうが広がっていくのであれば、
その過去の記憶はあなたにとっても、あなたの周りに居る人にもよい影響を与えた
ことになるでしょう。
こんなことを書いている私にも、
思い出したくない過去はあります。それが普通だと思います。
あなたがどんなに幸せになっても、過去の自分にであってしまうことはあるでしょう。
その引き金をひくものは、あちこちに隠れているでしょう。
そのとき再び「落胆」することになったとしても、
人生に調和を取り戻していくことが大切で、
それこそが、
あなたにとっての
・・・私達にとってのミッション
であるのかもしれません。
ある特定の記憶を消せずにいるのは、
そこにどんな光を投げかけることで自分を癒すことができるのか、
考える必要があるから
なのかもしれません。
あまりに辛い時期は
その現場から離れる、出来事を思い出すようなことからは離れ、
あなたの
心を明るくするもの
を探すようにしましょう。
どうか、ポジティブでいてください。
あなたは(そのとき置かれた事情において)ベストを尽くしたのです。