
今日は、ふと高校時代に仲良くしていた人のことを思い出しました。
今では普段のやり取りもなく、長い時間が流れているのですが、私は中学生の頃からその人を知っていて、ずっと
格好良いなぁ。
と思っていました。
その人は女性です。
たぶん私が、生まれて初めて
憧れ
という気持ちを抱いた女性だったのだと思います。
私から見ると彼女は、同じ世代でありながら、もうずっと先の大人の世界を歩いているような、
もっと高いところから人生を見ている人
のように感じられました。
当時、私はよく「チャーリーズ・エンジェル」を見ていました。
あるとき、エンジェルの一人が事件解決後に口にした台詞が、妙に彼女のイメージと重なったことを覚えています。
あなたって、いつも右を向いているわよね。
そう言われた女性が、
私はただ、可能性のある方を向いているだけよ。
そんな意味のことを答えたのです。
本当に彼女は、いつも「可能性」という方向を見ているような人でした。
周囲の人がどう思うかを気にしながら動いていた私とは違い、自分の意志を持ち、自分が進むべき方向へ歩いているように見えました。
それでいて、少しも気取ったところがありません。
人を笑わせるのも上手で、いつも自然に人が集まり、たいてい輪の中心にいました。
だから、同じ高校へ進学したと知ったとき。
そして教室の中に彼女を見つけ、しかも同じ班になったとき。
私は飛び上がるほど嬉しかったのです。
けれど、
「ずっと格好良いと思っていた」
とは、一度も伝えないまま今日まで来てしまいました。
今になって思えば、私は彼女そのものになりたかったわけではなかったのでしょう。
彼女の中に、
自分がまだ知らなかった生き方
を見ていたのだと思います。
人の顔色を見て進むのではなく、自分が向かいたい方向を見て歩くこと。
彼女はそれを言葉で教えたのではなく、生き方そのもので見せてくれた、最初の人だったのかもしれません。
彼女は知性も高く、運動能力にも恵まれ、今でもバスケットボールやバレーボールで汗を流し、多くの人に慕われています。
そして不思議なことに、
彼女との出逢いが、後に伴侶となる人との出逢いへつながっていきました。
そう考えると、あの日、学校の廊下で彼女に尊敬の眼差しを向けた瞬間から、私の人生はすでに次の方向へ動き始めていたことになります。
私たちには、まだ見えない未来へ思いを馳せる「想像力」があります。
けれど、それとは反対に、
その未来まで来て初めて、過去の意味がわかる
こともあります。
なぜ、あの人だけが妙に気になったのだろう。
なぜ、あの言葉だけが忘れられなかったのだろう。
なぜ、あの日の光景だけが、ほかの記憶よりも鮮やかに残っているのだろう。
未来まで歩いたところで振り返ってみて、
あれが始まりだったのか。
と、その正体に気づくことがあります。
今、私はこうしてPCに向かって文章を書いています。
けれど、このブログへ導いてくれた人をたどっていくと、
私がPCを開いて、最初に出逢った人
だったように思います。
その人に勧められて、私は初めてホームページを作りました。
それは自分で書いて、自分で眺めるような小さな日記でした。
けれど、その経験がなければ、今こうしてブログを書き続けている私はいなかったでしょう。
当時、その人が見せてくれた写真では、建設関係の仕事をしていて、ヘルメットをかぶっていました。
その後、デザインの道へ進み、今では会社を経営しています。
彼自身もまた、当時の職場の先輩から
デザイン関係へ進んでみたらどうか
と勧められたのだと聞きました。
つまり彼もまた、一人の人との出逢いによって、次の世界へ導かれたことになります。
そして彼との出逢いが、今度は私を次の場所へ運んでくれました。
今では音信も途絶えています。
けれど、だからといって、その出逢いの価値がなくなるわけではありません。
振り返ってみると、
縁には、その人が担う役目の期間がある
のかもしれないと思うことがあります。
ずっと一緒にいる人だけが、大切な人なのではありません。
あるところまで連れていき、次の扉が開いたところで、静かに離れていく人もいます。
私自身、人生の方向が大きく変わるときには、なぜかその少し前に、一人の人が現れることがありました。
その人と一生付き合いが続くわけではありません。
けれど、
その人がいなければ、次の場所には辿り着かなかった。
そう思える出逢いがあります。
「最初の出逢いは、自分を次のステージへ導く師になる」
という考え方があります。
ヨガには、
グル
という言葉があります。
サンスクリット語で「導師」「先生」を意味する言葉です。
ヨガ指導者のケン・ハラクマ氏も、最初から完璧な師を探し求めなくてもよく、最初に手に取った本や、最初に出逢った人や教えが、その人にとって最初の「先生」になり得る、という趣旨のことを書いています。
そして、その最初の出逢いが、
さらに深く知るための、次の出逢いを連れてくる。
それは、私自身の経験を振り返っても、とてもよくわかります。
よく知られた言葉に、
生徒の準備が整ったとき、教師は現れる。
というものがあります。
けれど私は最近、その言葉にはもう一つ続きがあるような気がしています。
教師が現れたからといって、そのときすぐに、教えられたことのすべてを理解できるわけではありません。
むしろ私たちは、
人生の大切な教訓ほど、一度では学べない
のではないでしょうか。
最初に出逢った人から受け取った言葉。
なぜか心に残った生き方。
そのときには意味がよくわからなかった出来事。
それらが長い時間を経て、別の人、別の出来事、別の経験として、何度も形を変えて現れることがあります。
そして、ある日ようやく、
ああ、あのとき教えられていたのは、このことだったのか。
とわかる。
成長には、繰り返しと時間が必要なのだと思います。
そして何より、
自分なりの方法で、その意味に辿り着く自由
が必要なのでしょう。
だから最初の先生とは、
完成した答えを渡してくれる人ではなく、最初の問いを残していく人
なのかもしれません。
いまだにスマートフォンを持たない私が、なぜPCを買うことになり、そこからホームページを作り、今こうして文章を書いているのか。
そこを遡ってみると、驚くほどいくつもの「縁」がつながっています。
一つだけを見れば偶然です。
けれど、ずっと後ろまで糸をたぐってみると、
一つの出逢いが次の出逢いを呼び、その出逢いがさらに別の扉を開いている。
そんなふうにも見えてきます。
自分の娘たちを見ていても、同じようなことを感じます。
当時の私は生活していくことで精いっぱいで、習い事をたくさん経験させてあげられるような余裕はありませんでした。
それでも、いつしか長女はダンスの道へ進み、インストラクターを経て、モデルの仕事にもつながっていきました。
二女は高校卒業まで弓道に夢中だったのに、卒業間近になって突然ギターを買い、路上ライブを始め、一人で都会へ出ていきました。
そこから、それぞれの人生がまた思いがけない方向へ展開していきました。
もちろん、経験する機会を与えられるのであれば、それは素晴らしいことだと思います。
けれど、
何がなんでも、ほかの何かを犠牲にしてまで準備しなければ、自分の道へ進めない
ということでもないのでしょう。
それぞれの事情の中で、今できることを工夫しながら進んでいけばいい。
必要になったとき、不思議なくらいちょうどよい人や出来事が現れることがあります。
目的を持つことにも、きっと意味があります。
その目的に向かって生きていると、
友人の何気ないひと言の中に、自分がずっと探していた答えを見つけることがあります。
自分では何気なくしたことが、思いがけず誰かの人生のきっかけになっていることもあります。
つまり私たちは、自分でも知らないうちに、
誰かの人生の「最初の出逢い」になっている
ことさえあるのでしょう。
思いつきで口にしたひと言。
何気なく勧めた一冊の本。
たまたま誘った場所。
ほんの短い付き合い。
そんな小さな出来事が、何年も経ったあと、誰かの人生の大切な入口になっているかもしれません。
だから「最初に出逢った」ということには、私たちが思う以上の意味があるのかもしれません。
その瞬間には、何が始まったのかわからない。
ただ、
なぜかその人だけが気になった。
なぜか、その言葉だけが心に残った。
なぜか、もう一度会いたいと思った。
その程度のことです。
けれど何年も先まで歩き、ようやく振り返ることのできる場所へ来たとき、
あの人が、次の世界への入口に立っていたのだ。
と気づくことがあります。
そしてそのとき初めて、
あの日なぜその人だけが、
あんなにもひときわ煌めいて見えたのか。
その理由が、わかるのです。


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