◆「死」についての二つの考え方
「死」については、
だいたい二つの考え方が浸透していると思います。
一つは、
死んだら身も心も無くなる、一切は滅びてしまう、
人生は今回ぽっきりのもの、
という考えかたです。
この考え方だと、
死とはなんて恐ろしいのだという考えが助長するか、
今され良ければいい
という刹那的な生き方になるか、どちらかになりそうです。
死によってすべてが終わるのだとすれば、
どうなったってかまやしない
という、自暴自棄的な生き方にも繋がり、最後まで努力し続けよう
などとは考えなくなるでしょう。
二つ目は、
死んでも肉体とは別の霊魂のようなものがあり、
人としては生まれ変わらないけど、
意識として続いていく
という考え方です。
よく、死んだら霊魂は
天国に行くとか、地獄に行くとかいいますよね。
死んだら(良くも悪くも)すべて清算される、
だから(天国にいきたいから)今を我慢して生きよう、
という考え方になりかねません。
そして、誰しも一度や二度の過ちはあるものです。
自分はそれについて許されている、と考えたくなる(^_^;)けど、
確実に自分は天国に行く、
という保証はありません。
また、
死んだ後に地獄という苦しみの世界が待っている、と思えば
死は最大の恐怖
になるでしょう。
仏法もこの考え方に近いのですが、
「死」と「生」を断絶したもの
とは考えません。
死は宇宙への融合
と説き、
私達は生と死を延々に繰り返す
のだ、という生命観にたっています。
ゆえに
旅立つ側は、
「現世」の終わり方が未来世の始まりを決めるという意味で、最後まで「生」を全うしようと考え、
見送る側にとって、
愛する人の「死」は、決して悲劇ではなく、次なる「生」への瑞々しい出発である
◆人は「死」を忌み嫌うのか
ただ、私達は普段
こうしたことについて、なるべく
考えないように しているし、
死について触れることを避けようとさえします。
有限の世界で、これほど確実なことはない
にも関わらず、です。
私達は、
本気で現実について考えるより、幻想を抱くほうが気が楽
なのです。
また、
長い間
「死は忌むべきもの」として扱われてきました。
近年になって、キューブラー・ ロス女史による 「臨死医学」 の研究などに関心が向けられ、
ようやく
問い直されるようになり、
社会全体が、死に対する大きな「思い違い」に気づきはじめてはいるものの、
まだまだ肯定的な受け入れには至っていない、というのが現実
ではないでしょうか。
長い間、
死は「生の欠如・ 空白状態」
のように思われ、
・生が善であるなら 死は悪
・生が有で 死が無、
・生が条理 死が不条理
・生が明で 死が暗、 等々・・
ことごとく、「死」はマイナス・ イメージを割り振られてきました。
このような観点から「死」を見つめる時、私達はとても苦しい思いをします。
◆今より美しい自分に生まれ変わりたい、という願望は叶うのだろうか。
今度生まれ変わるときには、頭のいい人になりたい、綺麗な人になりたい、
私もよくそう思います。(^_^;)
それについては、
仏法の「色心不二」に説かれていて、あなたも知っているかもしれません。
普通に考えても、
私達肉体を構成する物質は、時々刻々に新陳代謝によって、変化を続けています。
精神活動も、一瞬一瞬変化しています。
にもかかわらず、一歳の時の蓮華子と、今の蓮華子とは同一人物です。
朝、目覚めたらすっかり別人になっていて、別な人生を送ることになる、ということはあり得ません。
幼かったあの子が大人になる、
ガキ大将だったあいつが人を救う医者になったり、イケメンでモテモテだった男子が腹の出たおじさんになる、
でも、その人が別の人になったわけではありません。
あなたも、いまのあなたになるためにしてきたことがあるはずです。
こうした事実に照らして考えても、
死によって、
一旦大宇宙の生命体に融け込んだ生命は、
再び縁によって、前の生命の連続として出現してくる
という仏法の考え方は、一番腑に落ちるのです。
再び生まれ出た生命の肉体は、過去世よりの連続として、
それと同じ生命の傾向に対応して
宇宙から物質を集めて構成されていく
ということ。
知ると知らざるとにかかわらず、あなたが了承しようとしまいと、この仏法の生命論は、
厳然たる事実である
満足のいく身体を手に入れるには、
それに相応な生命状態を獲得することが大切
だと言うことなのでしょう。
あるいは、そうしたことに執着しない境地に到達するように、ということなのでしょうか。
◆死も「生」と同じ「恵み」
仏法では
臨終只今
という言葉もあるのですが、それは
今、臨終を迎えても悔いはない、
との覚悟で生きること、
現実の一日一日、一瞬一瞬に生命を燃焼させていくことで、
「生」を価値的にする道を示しています。
人が最高の生を全うするためにも、死をどうとらえるかは、とても重要です。
かつて私の父(一時的に養父であった人)は、仏法を学ぶ私に何かと難癖をつけてきたものです。
ところが死を間近にして、幼子のように「死」について私と話をしたがるようになりました。
よっちゃん、私は天国に行けるのかなぁ。
結局、
誰もが いつかは 向き合わなければならなくなります。
昨日まで
「面倒くせえんだよ、そういう話」
と言っていた人も、いつかは考えなくてはならない時が来ます。
父に安心して旅支度をしてもらえるよう、できる限り誠実に話をしましたが、実際のところ、話しながら私自身が学んでいました。
「死」を受け入れることによって、初めて人は今を「生きる!」ことができるのだ、
とその姿から教わっていたのです。
死は単なる生の欠如ではありません。
生と並んで、 一つの全体を構成する不可欠の要素
です。
仏法では、
生死など一切の事象は縁に触れて
「起」 すなわち出現し、
「滅」即ち消滅しながら、 流転を繰り返していく
と説かれています。
もっとわかりやすく言うなら、死とは、
人間が睡眠によって明日への活力を蓄えるように、
次なる生への充電期間のようなもの、
***追記
何百もの「臨終」に立ち会う医療に携わる方の中には、ある法則のようなものを見つける人もいらっしゃいます。
それは
人は生きたように死ぬ
ということです。
例えば、
最後まで生を全うされた方は、本当に晴れやかお顔で旅立ち、
いつも笑顔を絶やさない方は、ほぼそのままのお顔で亡くなる
ということを言われます。
時に、
まるで生きているようだ、
と感じさせる方がいらっしゃいます。
その方々には共通点があるそうで、それは
生前、自分のことより人の幸せを優先して考え、常に周囲に対して感謝の心で接していらっしゃった方である、
と。
私達は、
こうした亡くなっていく人の姿を通し、自らの生きるべき道を確かめ、死と向き合う力を得ていく
ことができます。
そうは言っても、
私達には「感情」があるので、愛する者がなくなった時には悲哀や切なさを感じないではいられない、
どんなことを語ったところで
死を受け止めるなんて、容易な事じゃない、
あなたはそういうかもしれない、
「失った」と考え、「悪いこと」が起きたといい、「もうそこにいない」んだ、という悲しい気持ちしかない
ように思えるかもしれません。
残された者が注目すべきなのは
その人が「生きていた」ということ。
大切なのは、
「その人が生きた人生を大切にすること」で、
その方たちが、まさに「命がけで」残してくれたものを思い、
自分の生き方を深めていくこと、
更に次の世代に託していこうという心が大切ではないかと思うのです。