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それでも「死が怖い」ですか?

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◆人は何故「死」を恐れるのか?

人は生まれた以上、必ず死を迎えます。

有限の世界で、これほど確実なことはありません。

 

けれど、人はなかなかそれを受け入れることができません。

 

何故でしょう。

 

長い間

「死は忌むべきもの」として扱われてきました。

 

近年になって、キューブラー・ ロス女史による 「臨死医学」 の研究などに関心が向けられ、ようやく「尊厳死・ ホスピス・ 葬儀の在り」などが問い直されるようになりました。

 

社会全体が、死に対する大きな「思い違い」に気づきはじめていますが、まだまだ肯定的な受け入れには至っていないのではないでしょうか。

 

長い間、死は「生の欠如・ 空白状態」であるかのように思われていました

 

・生が善であるなら死は悪

・生が有で死が無、

・生が条理死が不条理

・生が明で死が暗、 等々・・

ことごとく、「死」はマイナス・ イメージを割り振られてきたわけです。

 

◆死を肯定的に捉え、「覚悟して」今を生きる

 

このような観点から「死」を見つめる時、あなたは大変苦しい思いをします。

 

けれど、どちらにしても「避けられない」のですから、死をおそれて生きるより「今」を懸命に生きることが大切です。

 

そのためには「覚悟」して生きることが必要だといった人が、ドイツの哲学者ハイデガーです。

 

彼は、死を「根本的な不安」として位置づけ、「先駆的覚悟性」という前向きな気持ちへ転換しようとしました。

 

過去も未来もどうすることもできません。

 

不確実な未来に悩まされるのではなく、人生の先にある可能性を先回りし了解して覚悟することが大切だと伝えたのです。

 

否定的な見かたをしたまま覚悟することはできませんから、死を肯定的に捉えることが大切です。

 

死の不安をやわらげるもの、それは「今現在を賢明に生きること」です。

 

どうにかすることができるのは「今」だけ。死は「生」の裏返しです。

 

死を肯定的に受け入れることで、私達は初めて「生」も肯定的に捉えられるようになります

 

◆死も「生」と同じ「恵み」

 

かつて私の父(一時的に養父であった人)は、仏法を学ぶ私に何かと難癖をつけてきたものです。

 

ところが死を間近にして、幼子のように「死」について私と話をしたがるようになりました。

 

父に安心して旅支度をしてもらえるよう、できる限り誠実に話をしましたが、話しながら私自身が学んでいました。

 

「死」を受け入れることによって、初めて人は今を「生きる!」ことができるのではないか、とその姿から教わっていたのです。

 

死は単なる生の欠如ではなく、 生と並んで、 一つの全体を構成する不可欠の要素です。

 

仏法では、生死など一切の事象は縁に触れて 「起」 すなわち出現し、「滅」即ち消滅しながら、 流転を繰り返していくと説かれています。

 

もっとわかりやすく言うなら、死とは、

人間が睡眠によって明日への活力を蓄えるように、 次なる生への充電期間のようなもの
決して忌むべきではなく、 生と同じく恵みなのです。

 

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