◆依存症の解決を難しくしていること
ひょっとしたら「依存症」かもしれない、
あなたの身近には、そう思う人がいるかもしれません。
それは、
自分の意志でコントロールできない状態になっている
ことをいいます。
市販の薬を乱用する、一日の喫煙量が半端ではない、買い物しすぎるなど、
放ってはおけない状態
になっていること。
その状態から
救いたいと思っている、大事な人が、あなたにはいるかもしれません。
普通の病気なら
お腹が痛いから病院に行きたい
と、自分がつらい状態を訴えます。
でも、
依存症の場合、本人より先に周囲が
なんかおかしいんじゃないか、大丈夫だろうかと思ったり、迷惑をかけられるところから始まっていくことのほうが多いのです。
周囲はなんとかしようと、監視の目を光らせるようになりますが、
依存症の人は(私の母もそうだったのですが)、周囲の人がおもうほど、それが悪い行為だと思っていなかったり、
苦痛を一時的に忘れさせてくれる手段になっていたりするので、
隠れてでもしよう
とするようになります。
◆依存症とは、実は依存できなくて苦しくなっていること
私も、朝コーヒーを飲まないとなんだか落ち着かないとか、
そうしないと気が済まない
という意味では、
いろんなものに依存して生きています。
あなたはどうですか。
人は、様々な
ゆるいつながり
に依存していて、
本当は、多くの依存先を持って生きている
ものです。
人の心って、案外もろくて、
微妙なバランスの上に踏みこたえていたりする
のです。
だから、今健康であることも奇跡のようなもので、いろんな内外の条件がうまくそろって
支えられている
というべきであるかもしれません。
年齢的なもの・性格的なもの・環境からくるもの・・、
微妙なバランスを崩すもの
は、たくさんあります。
精神科医の松本俊彦先生は、このようなことを言われています。
依存症になる人は、
いろんなものにちょっとずつ依存したり、身近な人に弱音を吐いたり、っていう、
依存の仕方がわからなくて苦しむのです
中略
そもそも依存になっている人達は、「依存できない病」なんです。
と。
だから自助グループなどに参加し、ちょっとしたつながりを持ったり、
自分が求めていたことー頑張っていることに対する労いの言葉などーの理解が得られたりすることで、
症状が治まっていくこともあるようです。
人は「話す」ことで心の問題を「離して」いる
のだともいわれています。
なんの助言をされなくても、そばにいて気持ちに寄り添ってくれる相手がいるだけで、
悩みが軽くなったり、ときには消えてなってしまうことがあるようです。
◆依存症の人にとって本当に必要なこと
私達はたいてい、
「依存することはよくない」と思っています。
だから、
身内にそういう状態に陥っている人がいることを隠そうとしがちで、
「つながりをもつ」という発想・選択も起きにくいかもしれません。
本当は、「依存しない生活を目指そう」と考えるのではなく、
依存先を増やそう
と考えることのほうが大切なのです。
特定の何か
を依存先にしてしまうと、選択の余地はなくなります。
切れたら終わり
なのです。
それは、とても苦しいことです。
たった一本の命綱に頼るのではなく、
その誰か・何かがなくなっても生きていける状態にしてあげること
が大切です。
当人にとっては、
生きるために、
たくさんのエネルギーをつぎ込まなくてはならないような状態です。
誰だって弱音を吐きたいときがあるし、自分だけの力ではどうにも立ち行かなくなって、誰かに助けてもらいたいときがあります。
普段から強い姿を見せている人は、そんな時でも
弱い姿を人に見せられず、普段通り「気丈な自分」を演じ続けてしまうことがあります。
◆依存症に陥ってしまうのは、誰とも共感しあえない・自分に味方がいないと思うとき
そうした人の心に働きかけるにあたり、家族など
関係が近い人たちだけで対処しようとすると、かえって改善が遠のいてしまうことがあります。
こうあってほしい
という思いがどうしても働いてしまって、自分の意見を押し付けてしまいがちです。
否定されず、素直な気持ちを遠慮なく話せる場所
が、やっぱり必要なのです。
人は理知的な判断もしますが、仲良くない人の意見に耳を貸そうとは思わないものです。
だから、
仲良くなること
は、とても大切です。
こんな言い方をしてよいかわかりませんが、うちの母のような勝気な人は、
降参
したがりません。
他の人が「自分の味方」になってくれると思えない
とき、
降参は屈辱、陣地を乗っとられること、幸せが奪われること
と、おびえるのも当然です。
もう自分だけではどうにもならないんだ、助けてほしいんだと、本心を打ち明けるためには、
自分はその人から
「敵意」とか、「悪意」ある見方をされていない、と考られること
が大切です。
◆自分は依存症かもしれない、そう思ったらこう考えてみて。
あなたが几帳面であったり、優等生タイプで、
何から何まで完璧にやらなければ気がすまないような場合、
何かのことで環境が変わってしまい、それになじめなかったり、義務や責任が手に余るようになったりしても、
手を抜く
ということができないのかもしれません。
他の人の目に完全なものとして映ろうと苦労したり、
自分の眼に理想的であろうとすることが、心の病のもとになっていく
ことは多いのです。
だから、一度は
それをすることって、
本当に自分を良くした(している)のだろうか、
と考えてみることが大切です。
もし君が悪くなれば、さらに悪い魂となり、
もし、君がさらによくなれば、さらに良い魂となる
とは、プラトンの言葉です。
自分の価値を、自分で判断していることがあります。
例えば、あなたが主婦で働いているとしたら、
仕事から帰り、疲れた身体で夕食をつくり、家族に提供したあとは洗濯ものをとりこみ、
宿題をみてやったり軽く掃除をしたり、お風呂を沸かすという一連の作業があるでしょう。
でも、これらのどれかを家族に分担してもらったり、おかずの一品くらいお惣菜でまかなったりして「手を抜こう」としないとき、
それをしないことは、自分の価値を下げることになる
という心が働いているなら、
それは
「大我」で選択していることのようで、小我の選択
であったりします。
小我の選択をすると、その結果のすべてを自分だけで背負い込むはめになる、
という悪循環が起きます。
翻って、人の価値を判断することは、誰にもできません。
そもそも、私達は自分から生まれてきたわけではないし、
自然や動物とおなじく「存在させられているもの」であり、その価値を判断する立場にありません。
少々人が自分をけなしたからといって、
それがあなたの価値を下げることにならない
し、
誰かがあなたを褒めたからといって、価値があがるわけでもありません。
なのに、
私達はつい、こうした小さな「我」を張ってしまう
のです。
そして、
心の統率を図るために、心理的に自分をごまかしたり、欺いたり
するようになります。
もしも、
自然な物事の流れに抵抗することをやめ、
「私達を存在させている大きな力」に身を委ね、
ペースを遅くし、
新しい考え方を取り入れられるようになれば、
延々と続いてきた不安の元となっている考えや、心配ごとからも解放されるようになります。
成功に気持ちを集中させることより、それはずっと成功に近づく手段なのです。