◆許すことができない、その感情の中には悔しさや悲しさ、怒りが入り交じっている
「わいせつ教員から子どもを守れ」昨日の新聞の3面に大きく掲載されていたこの記事にショックを受け、一瞬読むことを躊躇いました。
ただ、その記事は「統計」を伝えるものであり、
「二度と教壇に立たせないよう」対策を急げといったことが書かれていました。
私がショックを受けたのは、自身も子供を育てた経験があるからという理由も勿論ありますが、身近にそうした教師がいたことを知っているからです。
私はまだ何もわからない小学生でしたので、このことは後にわかったのですが、
その教員は、放課になると遊んでいる子供達を見つめながら座っていました。
そして、いつもお気に入りの女の子を手招きして膝にのせようとしました。
教員のお目当ての女の子はクラスでも人気者で活発で賢く明るく、嫌だと思う事はちゃんと抵抗することもできたので、被害はなかったと思います。
他の子も抱っこされましたが、皆すぐに教員の膝から逃れました。
自分の子供が学校に行くようになった頃、あの頃目撃したことが蘇り、被害に遭った誰かがいたら?と考えるだけで
「絶対に許せない」という怒りにかわります。
物事は、こんな風に後から振り返ればより明確に見えてくるものです。
未熟だった自分を責め、
「あのときもっと物事がよく見えていれば」という後悔をしてしまうこともあります。
例えば長い間間違った観念を植え付けられ育った、心や身体の自由を奪っていたとわかり
「人生を返して」と言いたくなる人もいるかもしれません。
他にいくらでも対処法があったかもしれないと考えると、それを実行出来なかった自分が許せなくなることもあります。
「許せない」感情の中には、そうした複雑な感情が幾層も絡まっていたりします。
◆許すことができない、そんなことが人生の節目節目に訪れる
人生の中では、許すことなんてできない!と思うことはいくらでもあります。
私自身もそのような「許せない」と思える体験は多々あり、もう話したくないような体験が幾つもあります。
小さなことでは、
数年にわたり玄関前の小さな花壇に、飼い犬の糞を置いて行かれ続けています。
どうしてうちなのか、わからないという困惑と
朝はその小さな花壇を見るので、朝から嫌な気分になります。
猫の額ほどの小さな花壇なのですが、そこに入ってくるには玄関前の駐車場スペースまで入ってこなくてはなりません。
ということは、それを目的にきている、「わざわざ」実行に移している、ということです。
何度か逃げていく人影を見ているのですが、どういうわけか対面することができません。
数年間、そんな風で
「しょうがないなぁ」と、私が袋に入れて捨てていたのですが、
子供達が大人になり、
「もう長いこと続いているんだよね」
と話すと、「防犯カメラ」をつけるべき・住居侵入の罪だと騒ぐので、一時はそうすべきかと思ったりして、いろいろ対策を考えたりもしました。
ただ、どれも大した効果はありませんでした。
それよりもその「考えている間」、私は腹立たしさをずっと抱えたままいることになるわけで、
「懲らしめなくてはならない」という意識に翻弄されてしまうことが耐えられなくなりました。
家の花壇に糞をされることより、この感情と居続けることのほうが私にはあっていないので、とりあえず感謝できるようにと考えました。
随分能天気だと思われるかもしれませんが、物質的に対処できないなら「心」で、という思惑もあり。
このことがあるおかげで、朝大事なことを思い出せます。ありがとう。
(犬の糞を捨てるくらい、大した作業ではないわ)
結局そう思った翌日から、数年間続いたこの行為はぴたっと治まったのでした。
つい一週間前のことです。
ここに書くためだったのかもしれません。
ただ、家の玄関の扉を開けるたび、本当に大事なことについて考える習慣だけはつきました(^_^;)
◆許すことができない状態は
「その出来事さえなければ」と過去の出来事に心が縛られたままになっているということ
勿論、すべてのことはこんな簡単にはいきません。
大多数の人にとって、許しには困難を伴います。
それは、同じ危険を避けるためだったりもします。
それでも許すことができないままでいることは、圧倒的にマイナスなことのほうが多いのです。
危険を避けようとする、その防衛的な態度が親しい関係を築くことを、豊かで温かな情感を味わうことを阻害します。
そして、嫌な相手との関係を心の中でいつまでも「保つ」ことになります。
そのことにより、あなたはいつまでも過去に生き続けることになります。
本当は未来に進むことができる、だけど許してしまったら「負け」だ!と思えるかもしれません。
そいつが勝つなんてだめだと思っても、結局は相手の行為によって自分が負の感情をおわされているのです。
「許す」ことが、大切なものとの関係を断ち切ることなってしまうようで「嫌だ」と思うこともあります。
私には悲惨な出来事を想像する度量もないので、卑近な例えで申し訳ないのですが、
例えば大切なものを壊されて許せない、などの場合、許すことでその大切なものを諦めることを選択しなければならない、という気がしてしまうのです。
恋人を友人に奪われた、などもそうであるかもしれません。
相手に謝罪させたい、打ちのめしたい、という敵意や怒りが湧いても、それによって好転するわけではないし、それ自体叶わないことのほうが多いものです。
人生は何かを終わらせ新しいものを受け入れていくことの繰り返しであり、殆どの人は人生の節目節目でこのような問題に直面します。
私も「善人」になれと言われると、それに関してはできない、だったら「悪人」と言われても構わないと言いたくなります。
こんなことをする人を許せというなら・・(T_T)
◆許すことができないことに、どう向き合ったらいいのか
「許せない!」という苦しみに終止符を打つことができるのは、相手から苦しんだ分の見返りを受け取った時。
例えば誠意ある謝罪、若しくは相手も同じくらいの苦しみを味わったと知ることができたとき。
あなたの心の叫びは
あの忌まわしい出来事を引き起こした相手には、何の罰も与えられないのではないか、あまりに不公平ではないか!!ということかもしれません。
それでも、もしも
もしもあなたが「絶望」と手を切り、あの日あの時のことを客観的視できるようになったら
あなたは、新しい物語を手に入れることができるのです。
「許す」は、好ましくない状況が起きたことを大目にみたり認めたり、それでいいと思っていないのにいいと思っているようなふりをすることとは違います。
否定的な目を向けるのをやめ、縁を切り、自分を悩ませている人や出来事から自分の権限を奪還すし、幸福になる道を選ぶことです。
相手が許すに値するから許すのではなく、あなたが「許す」に値するから許すようにするのです。
あなたと、あなたが許せないと思っている相手との関係に決定的な違いがあるとしたら
あなたは、「あなたを苦しませた人を置き去りにして」進む人となり、
相手は「人に苦しみを与えた自分のまま」人生を生きていくことになる、ということです。
あなたは過去を肥やしにより大きく高く飛翔していけますが、相手は自覚のない低い境地の中に居続けるということです。
境地は見る世界を変えてしまうのです。
世界がかわったとたん、「許せない」ことを引き起こしながらも平然と生きる人にあなたは同情し、哀れみの心さえ向けるようになるでしょう。
◆許すことができないでいる時には見えていない世界がある
「あの出来事がなかった世界で生きたい」
「過去に戻りたい」
そんなことは叶わないと知っていても、つい思ってしまうことがあります。
それでも
あなたは全く同じ道を通って進歩していくでしょう。
違う世界や以前いた場所に戻ったとしても、その後の「自分に釣り合うために」今度は別の似たような体験に苦しむかもしれません。
それは後から気付くこと。
宇宙には壮大なプランがあります。
それは私達の考えを遙かに超えていて、「時間」の中で生きる私達には「その時」までのことしか見えません。
あなたが
この人生に急に訪れた条件変化を認められず、計画を変更できないままでいると、あなたに良かれと思って差し出されるものにも、
あなたの魂が本当に求めているものに走っていけるきっかけが訪れても見逃してしまうことになります。
もしも今あなたが勇気を出して過去と別れを告げることができたなら、宇宙はその損失を補って余りあるものを、
あなたが新しい人生を歩むのに不可欠なものや強力な人材を送り届けてくれるでしょう。
たいていの場合、本当に乗り越えることができた人は
「もしもその体験をしないですむ、という選択があったら?」という質問をされた時、首を横に振ります。
あなたもきっとそう。
人生の大いなる計画の下で得られた経験と、精神世界の智慧を融合させ更に高次元の人生を構築していくことができます。
過去を終わらせることができるのはあなただけです。
人生の新しいページを開くためには、古いページを閉じる必要があります。