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誰のことも信じない、と思うことがあっても、孤立の道を選ばない

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◆誰のことも信じるのをやめよう、と思う時

「もう、誰のことも信じない」そんな風に見限ってしまうこと、あなたにはありませんでしたか。

私にはよくありました。

裏を返せば、それだけ人を「信じている」わけですが、

勝手に抱いていた人物像と、実際の人格とが大きく違っていて落胆したり、

自分が人に「受け容れられていない」と思うとき、心が不安定になりがちなのです。挙げ句、自分の殻の中にすぐ籠ってしまうのでした。

ちょっした行き違いであっただけ かもしれないのに、

その全体像を見る前に、悲しみや無力さに打ちのめされてしまうのです。

あなたはどうでしょう。

◆誰の生命も上層部分は変動しやすく、不安定なもの

仏法では、

人の心は時に従って移り、物の性分はその環境によって改まるものである。たとえば、水に映った月は波の動きに従って動き、戦いに臨んだ軍兵は敵の攻撃に従ってなびくようなものである。という言葉があります。

・・あなたもこの座では正法を信ずると決心しているけれども、のちになって必ずそれを忘れてしまうであろう。・・と続くのですが、

人の生命の上層部分は変動しやすく、不安定なものである

というところは、とても大事だと思うのです。

人は、その時々に「思い思い」の勝手な感情を、好きな方法で発散させるものです。

肯定的な感情で困ることはあまりないと思います。

否定的な感情ー不機嫌さ・苛立ちの態度・怒り・棘のある言葉などーを向けられたとき、

それらを直視しながらも、その底流に流れる生命の普遍性を見つめ、状況に囚われないことが大切です。

不安定な人の心を拠り所にせず、自分の中に確たるものを打ち立ててゆくこと、

「信じられるものがない」なら、

信じるに値するもの」を求め続けていく心が大切です。

◆誰のことを、何をもって「信じ」たらよいのか

「信じるもの?そんなものなにもないさ」と気取ったところで、

現実それで大丈夫かというと、決してそんなことはなくて

やっぱり人は、何かを信じていたいと願うものです。

あなたもそうではないでしょうか。

「信じる」とは、

真実たること・虚偽ではないということ。それを前提とした人間関係は、容易には崩れません。

「信頼できる」根拠は、どうやって得ることができるでしょう。

どうやって、その裏付けをとることができるのでしょう。

その人が「真」に堪える人であるかどうか見極めるには、やはり日常的に対話を重ねていくしかないのではないか、と思います。

言葉を交わしあい、議論し、対立しあって

その人の心を動かしているものが何であるのか」を知ること 

が大切ではないでしょうか。

 

朝のTVニュースなんかを見ていると、司会者がいて、コメンテーターがいて、解説者がいて、それぞれが独自目線から見解を述べます。

私は毎朝「テレ朝の羽鳥慎一のモーニングショー」を見ているのですが、羽鳥さんは「好感度優先」を公言していますし、

コメンテーターの玉川さんは「正義感」が強く、相手が誰であろうと臆せず追究していくコメントが多いです。「健康意識が高い」ことでも有名ですよね。

それで全体がとてもうまく調和していますし、話す内容は異なってはいても、

誰の話の中にも「真実」を見てとることができます。

また、お互いに理解しあっている関係性を見ている側は、とてもリラックスできます。

私なんかはいつも感心しながら視ているのですが、

もしも玉川さんがいきなり好感度を優先して発言するようになったら、ファンは裏切られたような気持ちになるでしょう。

この人の、そういうところがいいんだよね、と思っているわけです。

だいたいにおいて、

誰もが、「今の自分の身体の中で十分善く生きて」いるわけです。

ただ、現実にはお互いのことをよく知るほど付き合いを深めてはいかなくて、上層部分だけ見て

「知っている」つもりになってしまい、「そんな人だと思わなかった」という気持ちにさせられてしまうのかもしれません。

◆誰でも、自分の「暗」の部分は見せたがらない

あなたはショッピングや外食に出かけた時、知人の存在に気づいて咄嗟に身を隠してしまうでしょうか。

私は知ってる人を見つけると嬉しくなって、思わず声をかけてしまうのですが、同じテンションで会話が弾むこともあれば、挨拶もそこそこに逃げるように立ち去ってしまう人もいます。

旦那さんを盾にして、自分の存在に気づかれないようにした人に、びっくりしたことがあります。

そのことについて、娘達と話したことがあるのですが、

お化粧をしていない時とか、そんな気分ではない時とか、出かけるような恰好をしていないとき、この人に会うと面倒くさいと思う時、避けたい気持ちが働くと言っていました。

あなたはどうでしょうか。

私はないんですね。自分の中にない「気持ち」を人は察することができないので、私は長い間これが不思議だったのですが、どんな人に聞いても、それ以上の回答を得ることはできませんでした。

考えると、自分はどんな格好しててても(たぶん、パジャマ着てたとしても「パジャマ着ててごめんね」というし)、お化粧は基本的にしないし、気分がのらない時というのがあまりないんですね。

だから「闇」のような部分がないか?というと、きっとあるんですが、「明暗」の落差が大きい人もいるんだと思います。

「明」のスイッチが常にオンではなくて、むしろ「オフ」になっていて、必要に応じてオンになる人は案外多いのかもしれません。

 

ある日、咄嗟に身を翻した人を呼び止め、挨拶したことがありました。

ところが後日、

「そういえば、あの時会ったよね」と言っても、あまり覚えていないのです。

面白いことに、普段気丈そう見える人ほどそんなことが多かったりします。

もしかしたら、多くの人はそうした「暗」の側面を必死に打ち消そうとしながら、日常へと戻っていくのかもしれません。

 

誰もにもそうした「明」と「暗」の側面があって、それはふとした瞬間に「立ち現れ」たりもします。

立ち現れるものは、元々その人の世界にあるものです。

でも、「明」の状態でいるときは「暗」があるなんて

意識しないし、ましてや人に見せようとは思いません。

やっぱりそうした部分はなるべく隠しておきたい、相手に不愉快な思いをさせたくない、って思います。

仮にそうではなかったとしても、

一番よい状態の自分にもっていこうとするもの ではないでしょうか。

なので、本当に理解しあい、信頼関係を深めていこうと思う人とは

「明るい側面」だけを見てつきあうところから一歩「接近」して

その人の心に立ち現れる軌跡を聞くこと、そうして相手を「観察」することが有効的な手段であると思うのです。

◆誰かと自分との世界を隔てる心から、イキイキと関わりあう関係に挑んでいく

大人として「分別」をつけることは大切です。

でも、私達にはやはり「我見」があります。

私達は、宇宙的な生命の無限の世界に住んでいながら、「自分」という囲いをつくり、壁を巡らし、他の人と自分との世界を区別しようとします。

それが功を奏して強固な城を築くこともありますが、

そうでない場合、あまりにも小さく貧弱な境涯に閉じこもることになるでしょう。

だから自我の城の囲いを「幻」であると見抜き、これをいつでも破れる柔軟性を身につける

ことが大切なのです。

今、

現実に対話する機会そのものは、限られているかもしれません。

でも私達には想像する力があり、過去に交わした会話や言葉を思い起こし、そこに新たな真理を見出すなんてこともやってのけます。

想像力によって、

時間を超えてその人と対話し、反芻し、解釈することができます。

時には、あなたが問題だと思っていたことは大したことではなくて、別のことが「問題」であったとわかることもあります。

そんなことを考えるとき、

時とともに言葉が言葉を超え、思考さえ超えることを考えたとき、私達に大切なのは、

「ひょっとしたら 違うのかもしれない」という可能性を心にとどめておくこと、自分が感じている「絶対」を揺るがしておくことではないでしょうか。

それは、自分を護るためにも、相手と「より善く」生きるためにも、

「正しさ・善さ・美しさ」を追求していくためにも大切なことではないかと思うのです。

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