◆人から見下されている?人は自分がみたいように物事を見るもの
◆人から見下されている、と感じてしまうのはどうしてだろう
人は誰でも、なんらかの意味で生存競争の中に生きているといえます。
もしかしたら、のんびり共存共栄できている世界が、この地球のどこかにはあるかもしれません。
でも
仮にそういう場所があったとしても、生物を殺傷して命を繋いでいるのだとすれば、生存競争がないとはいえないでしょう。
意識していなくても、「日本人」と他の国の人を分け隔てたり、密かな憎しみや嫉みをもっていたりします。
○○大学への入学・○○大学を卒業・○○への就職・誰それの配偶者・・などなど、幸運の象徴であるかのように感じさせたり、力を持っているかのように錯覚させてしまうこともあります。
とりわけ
この社会では「評価」がついてまわります。
これは、学校教育がそういう仕組みになっていることが大きいのだと思います。
本来の評価とは、「誰がダメで誰がよい」ことを決めるものではないはずです。
当然、二人いればどちらかが「良い」とされ、どちらかがそうではないと判定されるに決まっています。
「良い」とされなかった人は、どんなに悲しい気持ちで生きなくてはならないことでしょう。
評価とは、そうではなくて自分のどの部分をどう変えて行くことで良くなるのかと考えるためであって、
それによって指針を得、これからの方向性を決めていくためのものであるはずです。
誰に言われなくても、自分に必要なのだから
という理由で動くためであり、そうした体験を経て自分のすべきことだから、向上の中に喜びを感じるから取り組むのだという姿勢に繋がっていくのだと思います。
◆人から見下されている?人は自分がみたいように物事を見るもの
私もこんな風(^_^)なので、見下されている?と思うことは今でもあります。
そんな私が今でも覚えていることー
あれは小学6年生の時、転校して半年くらい過ぎた頃でした。
今の道徳の授業は違うかもしれませんが、私達の時代には、よく道徳向けの番組を見せられていました。
そのTV番組の前に、もっと幼い子向けの番組が画面に流れるわけですが、TVだけに上手に番組が制作されていて、時々見入ってしまうことがあります。
私がつい集中して見ていると、横の男子なんかがからかうわけです。
「へっへー。一生懸命見てやんの!」
教室中に響くほど大きな声で言われ、私は真っ赤になるのですが、翌週その子達にはもっとひどい仕打ちが待っていました。
「おまえたち、そんなにこの番組が面白いか」と
先生に笑われ、教室の皆からも爆笑されてしまったのです。
あんなに私をからかっておいて、この時は自分達が夢中になって見ていたのでした。
その子達は私をからかった手前もあってか真っ赤になってしまうのですが、私はそれをからかうことはしませんでした。
彼らがその時、そのことでどんなに恥ずかしい思いをしているか、知っていたからです。
それに
彼らが私を見下していたのは傲慢で勝手な見方であり、自分が劣っているわけではないのだとも思え、ほっとしたのも確かです。
人はどこにいても、自分がどんな人であっても
思いたいように物事を見るものなのだ
ということを学んだ最初の出来事でした。
だから、他の人の目に、自分がどう見えているかを心配し過ぎないで。
あなたは、今自分がいる場所で心を豊かにしていくことが大切です。
◆人から見下されていると思ったら、自分の力の見方も考えてみる
心が痛むような出来事の中には、あなたが進歩するためにはどうしても必要なものが隠れていたりします。
あなたが不安に陥りやすいものを見せてくれ、
あなたが益々弱くならないようにしてくれ、力をつけさせてくれます。
低く見られていると思うとき、あなた自身も無意味な、つまらないものに流された考えで力を見ているのかもしれません。
自分のことをどう見るかを決めるのも、自分です。
どの人にも確かな魅力があると確信できている時、誰にどんな顔で見られているのか気にする気持ちも惜しくなります。
茂木健一郎さんの書籍をよく紹介するのですが、私が好きなページが幾つかあって、その一つは今回の記事にぴったりだと思いました。
今回はこれで締めたいと思います。
私は、この人達の、誰でもあり得たのだ。
「今。ここ」にいる私ではなく、他の誰も人生を歩むことも、あり得たのだ。
中略
かけ離れた資質を持ち、その資質の限定の中で、人生を一生懸命生きていくのだろう。
学校の勉強ができなくて苦労し、あるいはスポーツ万能で女の子からきゃあと言われ、あるいは「この子は器量が悪いから苦労するね」などと親戚の性格の悪いおばさんに言われ、傷つき、それでも仲間たちに支えられて生きていくのだろう。
中略
時には「もう生きてはいけない」と落ち込みながら、それでも前に進んでいくのだろう。
中略
金持ちがシャンパンで乾杯する楽しさと、長い労働の後でカップ酒でささやかに祝う楽しさにおいて果たして差があるか。
成功すれば何十億の利益だと胸を膨らませる楽しさと、うどん屋の親父が最近の客の入りが少し良いようだと嬉しく思う楽しさと、偶有性の喜びにおいて違いがあるか。
絶世の美人に生まれなかったとしても、その平凡な器量を愛してくれる心のあたたかい人が現われたとしたら、その時の天にも昇る気持ちに上下があるはずがない。
自分の人生ので与えられたものの中でやりくりする楽しさ。
不安の中に甘い希望をかみ分ける楽しさ。
そのような人生の喜びに、格差も勝ち組も負け組もあるはずがない
(「今ここから すべての 場所へ」)