ライフスタイル 使命

使命<1>覚醒と悲しい体験

10月 18, 2021

 

◆今、自分の存在が有意義に感じられないとしても。

人生には、これまでの壁を破り、

生まれ変わったように立ち上がる時

があります。

 

でも、

今のあなたは来る日も来る日も、同じ景色を見て過ごしているだけに思え、

自分に使命なんてあるのか

とか、

自分に限ってはないのではないか、

と思っているかもしれません。

私も、そう思っていました。

 

使命とか、生きがいについて語られるとき、

「やりたいこと」から始めよう!

などと語られることもあります。

けれど、

私なんかは、そのやりたいことが全然わからなくて、

現実の、山積みになっている諸々の

やりたくないこと

をこなすことに精いっぱいだったような気がします。

けれど、

そうした「やりたくない」ことをしぬいて、ようやく

本当はこんなことをしたいなぁ、と

「やりたいこと」を見つけられることもあります。

 

と、まあ「使命」なんてタイトルで記述していますが、

私は本当に平凡な人間なのです。

 

ただ

人には、それぞれ立場があり、役目があります。

人には、

独自の運命と学びの過程があり、

どれ一つとして同じ道はありません。

それぞれに用意されている経験が、その人独自の人生を形成していきます。

人とは違う経験をしているからこそ、

あなたも私も、伝えていけることがあります。

あなたも私も、自分の立場で生きていく以外にはなくて、

そういう意味で、

自分(あなた)は、自分(あなた)の立場で輝くこと

が大切だと思っています。

 

また、

平凡なようで堅実な一日一日の積み重ねこそ、

実は使命と切り離すことのできない、何らかの財産を積んでいる時期

であったりします。

たいていの人は

好きなことを仕事に

はできません。一部の人にはできるかもしれませんが、大半は

生活のために

働きます。

そして、与えられた仕事の中で

睡眠を削ってみたり、スケジュール管理をしながら、自分のキャパシティーを知ったり、

プライドを捨て学ぶ精神を培ったり、実績を出す戦いを強いられながら、自己研鑽します。

この自己研鑽内容が、自分の人格の課題であったりもします。

偉大な仕事をするには、自分の生命を磨き上げるための

開拓作業

が必要です。

自分にとって、何が「一凶」となっているのか、わかることもあると思います。

一朝一夕にはなしえない、

だからこそ、結果としてもたらされるものは、

何があってもびくともしないものになる

のだといえます。

振り返ってみると、それまで自分がやってきた努力が全部、その天職に生かされている

とわかるようになります。

何ひとつ無駄はなかったのだ

とわかります。

◆誰にでも使命はある、は本当か

使命とは、

命を使う

こと。

かけがえのない何かのために、自分の命を使うことです。

 

そのための、特殊な修行や実践があるというよりは、

そうした生き方を貫くために、

自己の小さな殻を打ち破っていく闘い

が必要なのだと思います。

だから、まずは

今ここでベストを尽くすこと、

他の「どこか」ではない、

自分が今いる場所こそが、

自分の人生の晴れ舞台

だと思うことが大切ではないでしょうか。

そして、できるなら

あなたがいなくては困る

と言われる人になること。それがどんなに小さな役割や仕事であっても。

そうして一生懸命になっているときは、一生懸命生きている時

です。

偉大なる道の途上においても、私達は何がしか宇宙の営みに仕えています。

 

私は、

誰にでも使命はある

と思っています。

自分がそう思うだけではないか、

と、言われるかもしれません。

でも

どんな人(生物)の生命にも

十界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏界という、一個の生命に具わる10種の境涯のこと)

があるのであれば、誰の生命の中にも「仏」の生命があるはずであり、

その「仏」の生命が奥底から湧現するとき、

必ず根源の使命を思い出す

と、確信しています。

私が仏法を学んでいるのでこういう言い方になりますが、仏の境地を高級自我と呼ぼうと、新プラトン主義の「一者」と呼ぼうと,、

あなたの馴染みのある言い方でかまわないと思います。

地位も財産も「使命」とは一切関係ない

仏の生命

とは、

広大で福徳豊かな境涯、

この境涯を開いた人は、無上の慈悲と智慧を体現します。

具体的には釈尊のような人のこと、

目覚めた人

のことを言います。

(ただ、生命状態は機に縁して変わるので、仏の生命になっても仏であり続けようとする姿勢が大切です)

そして、その人は

その力で一切衆生に自分と等しい仏界の境涯を得させるために戦い続ける

と言われています。こんなことをいうと、

凄い大それたこと

をしなくてはいけないように思うかもしれませんが、

言いたいのは、

使命に目覚めるために、何か特別な存在になる必要などない

ということ。

釈尊が最期まで人として生を全うしたように、あくまで

現実の中で生き、今いる場所で闘い抜く

ことです。

仏法には

貴賤上下を選ばず

という言葉があるのですが、

有名だとか、地位があるとか、お金持ちであるとか、そうしたことは一切関係ない、

ということが、仏法の中では多く語られています。

「覚醒」でもお話ししましたが、「目覚める」とは、

誰もが等しく尊い存在なのだ、という真実に気づくこと

です。

そのとき、人は必ず自身の使命を思い出すことができます。

使命感は、悲しい体験と引き換えに生まれることが多い

使命感が生まれる時というのは

例えば子供を失った母親が釈尊に助けを求め、やがて目覚めていった<注1>ように

悲しい体験と引き換え

であることが多いかもしれません。

注<1>仏法説話。

最愛の我が子を失い、悲嘆にくれる母に、釈尊は、

その子を救いたいのなら、その″薬″として 芥子の種を探すように

と、語りかけます。

 ただし、 その種は、

まだ 「死人を出したことのない家」からもらってこなくてはならない

言うのです。

その母は、 必死になって 一軒一軒、 訪ねて回るのでした。

けれど、 「死人を出したことのない家」 など、 どこにもありませんでした。

次第にその母親は、 自分だけではなく、

どの家も 家族を亡くした苦しみを抱えているのだ

と、気づき始めます。

そして、 自身の悲哀を乗り越え、「生老病死」 という根本課題の探究に目覚めていったという話です。

 

それはやはり、つきつめれば宇宙が慈悲(慈愛)によって営まれているからなのでしょう。

あなたの悲しい体験を通し、

他の誰にも、自分と同じ苦しみを味わってほしくない、

とか、

同じ体験をしている人の支えになりたい、という気持ちが関わっていることが多々あります。

そして、

そういう人達を幸せにするために自分の生命を使っていきたい、

深く使命を自覚した瞬間から、

あなたの境涯は大きく広がります。

 

ですが勿論、

使命の道に進ためには悲しい思いをする必要がある、というわけではありません。

肝心要なのは

すべての人が本来、宝塔の輝きをもっている

ことを心の底から実感すること、

この、

大いなる真実

に気づくこと

です。

使命に目覚めるとは、

皆が平等で「尊極」な存在であると

魂次元で認識し、

自分に縁した人が幸せになるために

身命をなげうって生きると決めること

だからです。

あなたもワンネスという言葉をご存知のように、

私達が目指すところは、

みんなの心をあわせていくこと、

最終的には

皆が尊極の心に共鳴しあい、歓喜しあっていきるようになること

です。

深い慈愛が基軸であるがゆえに

それは、世間的な仲間意識とか繋がりをはるかに超えます。

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