ツインレイの恋愛でよく触れられる言葉に「エゴ」という言葉があります。
通常の会話の中でも「それは親のエゴだろ」とか、そんな使い方をしますよね。
◆エゴは他者不在で閉鎖的
エゴとは、「エゴイズム」の略語ですが、これは「自分中心」の心、つまり「利己主義」を意味します。
「自分さえ幸せなら後は関係ない」、といった風に
自己中心的な目先の欲望に囚われている、他の人を不幸に陥れても幸せになろうとうする心です。
他者が不在で、
エゴに支配されるときは他者の痛みや悩み、苦しみへの不感症に陥っているともいえます。
例えば些細なことにキレる、暴力的な直接行動に走る、素知らぬ顔で傍観者であったりするといったようなことです。
◆煩悩とは悩みを起こす欲望
一方「煩悩」も欲望だといわれていますね。
似た意味に思えます。
ただ、この悩みの中には「誰かを救いたい」という願望もあったりします。
両親に長生きしてもらいたい、友人を元気づけたい、こうしたことも悩みです。
エゴと煩悩とは、ここが異なるのではないかと思います。
以前にもお話したように、私は縁あって仏法を学んでいますが、
「煩悩を消す」のではなく、煩悩を薪として「燃やす」ことが大切と言われています。
それを「煩悩即菩提」といいます。
ある悩みに対して、それに打ち勝とうとする力を湧き立たせることが大切なのです。
それは前進へのエネルギーとなるからです。
◆本来の清浄な生命に立ち返ることで人間らしく生きることができる
話は戻って、「エゴ」についてはどうかというと、スイスの心理学者ユング(カール・グスタフ・ユング)は
「自我」・・小さなエゴイズムに囚われた小さな自分。
「大我」・・時間的にも空間的にも無限に因果の綾なす宇宙生命に融合している大きな自分、自我の奥にある自己(セルフ)
といった風に分けています。
釈尊は、人々がエゴイズムに覆われているのは「自己の本来的な尊厳性への無知からである」と喝破しました。
内なる永遠不変の法に目覚めて、根源的な無知から解放された自己の本来の清浄な生命に立ち返る生き方こそ、人間が人間らしく生きるために必要なものを最も尊く優れたものである
そんな風に教えています。
◆自他共の幸福を目指して生きることこそ、本当の幸福
自力はそれのみで全うできない。
他力即ち自己を超えた永遠なるものへの祈りと裕吾によって、初めて自力も十全に働く。
しかし、その十全なる力とは、本来自身の中にあったものである
これは主観ですが、エゴも煩悩も「苦」を伴うことに変わりはなく、今こそ
他の人の抱える「苦」に寄り添うこと、自他共に悩みを分かち合うことが求められている、そのように思います。
最後に
アメリカ合衆国の哲学者デューイ(ジョン・デューイ)の言葉を紹介して締めたいと思います。
「他力」(人の能動的な行動を後押しする力用のもの)という言葉に何を見るか、それを感じ取れるのではないか、と思います。
「行動を導き、感情に熱を与え、知性に光りを加える」
「あらゆる形式の芸術、知識、努力、働いた後の休息、教育と親しい交わり、友情と恋愛、心身の成長、などに含まれる価値」
:魚津郁夫編『世界の思想家20デューイ』