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「いじめ」はなぜなくならないのか

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「いじめ」問題について、「自分とは関係ない」という人は殆どいない、と私は思っています。

現在いじめを受けていないとしても、いつ自分が標的になるかわからない、

そう思って周囲の顔色をうかがいながら仕事についていたり、学校に通う人も少なからずいるのではないでしょうか。

 

私自身は小学生時代に5回もの転校を強いられ、友達のいない学校でいじめを体験し、その度に「強くなりたい」と願っていました。

だから、敢えて人と接する仕事を選んで生きてきたように思います。

 

私は元々「抜けている」(抜けているところがある、のではなくてだいぶネジが抜けている)ので、そうした(外向性を身に付けたい、という)気持ちがあることで、なんとか生きてこられたのかなぁ、とも思っています。

 

勿論強くなることも大切ですが、自分一人強くなったところで職場や学校のいじめがなくなるわけではありません。

それを解決しよう、などどおこがましいことは考えてはいませんが、せめて心の中に留めておいてもらえたら、と思うことをお話したいと思います。

 

ちなみに以下の話は、かつて(平成時代)関西の某高校にて行われた講演模様を掲載した新聞の内容を思い出し、個人的にまとめたものです。

 

◆もしも全員に行き渡るだけ物資がなかったら?

「子供が三人いて、オレンジが2つしかなかったら三人はどうするか。」

これは、平和学の父・ヨハン・ガルトゥング博士(ノルウェーの社会学者)が、ある学校で講演を行った際、生徒に投げかけた質問です。

あなたなら、どう答えますか。

 

①オレンジの皮をむき、ケーキを作って分ける

②種を取り出して蒔き、10年後にかえってくる

③三人が共同して、お腹をすかせた子供達に与える

④何もせず、みんなでオレンジを眺め、「なんと綺麗で美味しそうなオレンジだろう」と鑑賞する

 

博士はこの4つの答えを紹介しながら、三人が平等にオレンジを楽しむことが可能であることを伝えました。

何が言いたいかというと、

様々な「衝突」が起きた時、出来る限り多くのアイデア・可能性があれば、その分だけ「暴力」に訴える可能性が減る、ということです。

 

日本の教育は、このようなアイデアが幾つも出てくるような教育を行ってきたと言えるのか、一見公平に見える学校社会も、

数字優先の画一的教育ではなかったのか、ということがようやく問われるようになり、一部の教育者と多くの子供達はいじめ問題を切実に捉え、撲滅しようと力を尽くしています。


誰かが幸せになるために他の誰かが犠牲になっても仕方ない、という教育をあなたは受けてはこなかったでしょうか。

また、その犠牲者とは自分だと感じていないでしょうか。

 

それを当然のこととして受け容れていませんか。

それはあなたにとってよくないだけではなく、それを認めているという意味で他の人にも良いことではないのです。

 

◆いじめと軍事侵略は同質

あなたの周りには、以下に示すような、物騒な解答を実行に移す人はいないでしょうか。

・二人は(多数派)が一人(少数派)を抑えつけてオレンジを奪う

・一人が二つとも買い占める

・一人ないし二人を抹殺する、或いは蹴落とす

 

これらの解答の中には、軍事侵略と同質の暴力性があるようにさえ感じます。

悲しいことに、「いじめ」とそれとは同根なのです。

 

皆が仲良くするにはどうしたらよいのか、その智慧を開発する教育が大切なのは言うまでもありませんが、それは学校だけではなくて家庭でも職場でもできます。

明日からでも、今からでも「お互いが智慧を出し合える」環境をつくっていくことが大切です。

 

ガルトゥング博士は言います。

「私が夢見ているのは、例えば小学校に行ったら、その学校でのあらゆる『衝突』を、暴力に訴えずにうまく解決したクリエイティブな人達の話が50編くらい載った本があること。その本は、皆さんが書くのです」

 



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